中澤系の短歌との出会い
きっかけはTwitterでのふとした私のつぶやき。
紀伊国屋にずらりと並んでいたイメージから、いつでも買えるのではと見送っていた中澤系歌集『uta0001.txt』。
— しゆん@読書垢 (@shiyun_1025) 2017年12月15日
思い立って検索してみたら、軒並み新刊書店には在庫はないどころかAmazonでプレミアついてる……。
出会った時の熱に任せて買っておくべきだった、絶望。
2009年に病気のため亡くなった中澤系さんが残した歌集『uta0001.txt』。
2004年に刊行され一度絶版になったのち、2015年に新刻版として再び刊行された当初、紀伊国屋新宿本店で広いスペースを割かれて展開されていた。
かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ
当時、歌集を手に取ってこの短歌を目にしたとき、思わずぐらっときた。
それが何かも分からないままずっと探していたものの在処をずばりと言い当てられたような気分だった。
インターネットや周りを見ればみんな当たり前のように、それがまるでいいものに違いないと分かりきっているように「恋」だとか「夢」だとか「希望」だとかを語ることに違和感を覚えていた。
だからと言ってその違和感を説明するのにシンプルで明快なことばなんて持ち合わせていなくて。
そんな折、この短歌に出会って泥臭くも自分なりの手垢のついたものにしてしまえばいいんだという気になった。他人にとっては唾液にまみれて汚いものなのかもしれないけれど、自分なりに恋だとか夢だとかをかみくだいてしまえばいいのだと。
おそらくこのブログでも何度か過去にも小説の感想で似た表現を使ったことがあると思うけれど、それもこの短歌の影響だ。
それでも当時、私にとって歌集を買うというのは少しハードルが高く、なんとなく購入を見送ってしまっていた。
ふと、手元に置いておきたいなと思い立った時には時すでに遅し。
つぶやきにもある通り2017年12月現在、既に新刊書店では軒並み取り扱っておらず、Amazonでは定価以上の値段がついてしまっている。
+++++2018年2月追記。
『中澤系歌集 uta0001.txt』は、2月22日に書店配本です。アマゾンでは、すでに予約がはじまっております。いずれも、ご予約いただいた場合、今月中にはお手元に届く予定です。双風舎版を買い逃した方は、この機会にぜひお買い求めください。短歌に興味があるすべての方にお届けする伝説の歌集です! pic.twitter.com/YNDwWp4ZCn
— 皓星社編集部 (@koseisha_edit) 2018年1月19日
以前、双風舎さんより刊行されたものと内容装丁そのままに、皓星社さんから刊行されるとのこと。
発売を前にして大きな反響があったようで、めでたく当初の予定より初版部数が増えたとのことですが、確実に手元に置いておきたい方はお近くの書店にて注文していただくか、Amazon等ネット書店で注文していただいた方が確実かと思います。
(上記のリンクは新たに皓星社さんから定価で再販されることになったもの。この記事をいちばん最初に投稿した頃には双風舎のものしかAmazonに流通しておらず、そちらは現在、最低でも定価の3倍近い値段で出品されている)
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そんな折、私のつぶやきを見た中澤系さんのご家族の方に声をかけていただき、まだ少数なら取り置きがあるということで縁あって歌集を手にすることができた。
インターネット万歳。
現在は入手困難となってしまったこの歌集ではあるけれど、どうやらまた増刷する動きがあるらしい。
2018年2月に別の出版社さんから内容そのままに刊行予定。
最新情報は以下のアカウントをチェック。
歌集再販がより一層実現に近づくよう、このブログを経由して誰かひとりでも手元に置いておこうかなと思えるよう、私の印象に残っている短歌のいくつかとそれについての雑感を書いていきたいと思う。
決して短歌に造詣が深いわけではないけれど、それこそ、私がかみくだいたとおりに。
私の為の完全無欠なことばがほしい
のみ込んでしまうべきだよてのひらで溶けないだけど口では溶ける
わかりやすさという甘露オブラートひと包み嚥下はひといきで
オリジナルなのだと言えばくしゃくしゃの紙幣をポケットから出しながら
ありふれたことばを吐くな一切の覚悟もなしのことばを吐くな
安全なことばを生もう永遠にことばを使わなくて済むような
このあたりの短歌を、世の中で使い古されたことばとそれを無自覚に使うことに対する戸惑いや覚悟についてのものとして私は捉えた。
特に「オリジナルなのだと言えば」という短歌を読んだときには、なんとも言えない虚しさと肩の荷が少しだけおりたような気持ちになった。
どれだけ私が私だけの気持ちを私だけのことばで表現しようと心を砕いても私から出てくるのはどこかで見聞きしたものだけなんだな、と。
あまいことばを飲み込むこと、吐き出すことは躊躇ってもしょうがないことだと覚悟のいることだと、念頭には置いておきたいのだ。
それでもやっぱり、どこかで完全無欠なことばがないものかと頭の隅で願いながら。
日常にふと香る仄暗いにおい
ぼくの死でない死はある日指先に染み入るおろし生姜のにおい
あいさずに生きてもぼくのまわりにはフレンチフライの香りが残る
生姜とかフレンチフライとか日常的なものと死とかあいとかを結びつけるそのギャップが鮮烈で。
特に「生姜のにおい」の短歌がぐっと心にくる。
私も料理で生姜をおろした後、ふとした瞬間に「あ、さっきのときの生姜だ」って思うことがあって、それは私にとって単なる生姜のにおいでしかなかったのに、これからはそのたびにこの短歌のことを思い出しそうだ。
私が物語や詩歌に触れるのが好きな理由のひとつが、こうやって日常の物事の捉え方や見方に色んなバリエーションが増えることで、ひとつことばが心に響くごとに、毎日の中でひとつ愛しいものが増えてゆく。
絶望と呼ぶには程遠い
こんなにも人が好きだよ くらがりに針のようなる光は射して
極めつけはこの短歌。
なにかと違和感や生きづらさを覚えるだのなんだのいいながら、そこに絶望や諦観を抱いているわけではなくて、誰かや身の回りの何もかもを好いていきたいとは思っている。できることなら、前向きに。
「こんなにも人が好きだよ」という思いは確かに希望に満ち満ちた光ではあるのかもしれないけれど、決して辺りを眩く照らすものではない。
本来ならかき消えてしまいそうなものでも、暗がりの中であればこそ針のように刺して私はようやくそれが光なのだと気が付くことができる。
何にも臆することなく「好きだよ」なんて言い放つことはできない私ではあるけれど、だからこそ、それは紛れもなく縋りたくなるほどの光なのだと感じていられるのかもしれない。
こんなにも人が好きだよ。