『凶器は壊れた黒の叫び』 河野裕
『いなくなれ、群青』から始まる階段島シリーズ4作目。
刊行前に『凶器は壊れた黒の叫び』というタイトルや書影が発表された際に、「凶器」や「壊れた」という言葉や、装幀イラストの堀さんの表情から、もしかしたら傷つくことから守られた階段島で誰かが取り返しのつかないような不幸に陥ってしまうのではないかと気になって気になって仕方がありませんでした。
前回は、所謂、現実世界で折り合いをつけた七草たちを巡るお話でしたが、今回はまた階段島に舞台が戻ります。
『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』で登場した安達が階段島を訪れた理由とその目的を果たすために立ち上げた新聞部の活動を巡って、七草はあくまでも表面上は穏やかに安達の思惑を阻止しようとする。
『凶器は壊れた黒の叫び』を読みながら、所々で今までのお話の中での七草くんたちの考え方ややり取りを思い起こさせる場面がいくつかあってひとつひとつ反芻しながら、じっくりと噛み締めながらページをめくる。
私は何よりも痛々しくも自分なりに正しくあろうとする登場人物たちがとても愛おしいです。
今回、様々な登場人物が行動を起こし、関係性だったり実情が変わる中、変わらずに存在し続けるものもあって、本当は書きたいことをぶわーっと書ききってしまいたいのですが、言葉が追い付かないので、ひとつひとつ、とりあえずこれだけは私なりの言葉にしておきたいと思ったことを、感想を書いていこうと思います。
※以下、内容に触れています。未読の方はご注意ください。
幸福でなくてはならない魔女
まずは、安達さんが階段島に訪れた理由。
それは魔法を奪うというもの。
物語の序盤では階段島の一見平穏な生活をかき乱してゆく、悪者のようにも描かれていますが、真辺が言うように、そして読み終えた多くの人が抱くように、きっと安達さんは優しい。少なくとも彼女に悪役は似つかわしくない。
魔法を使う条件は、幸福であり続けるということ。
もちろん「幸福である」のと「幸福でない」のだったら「幸福である」方がいいに決まっている。
でも、「幸福でなくてはならない」というのは呪縛でしかないのだと思う。
何より、胸を張ってなんの後ろめたい感情を抱かずに幸福であると言い切ることはきっと不幸ではないと言い切ることに比べてとても難しい。
歪に幸福であろう、とする姿勢そのものが何よりも不幸だと私には思えてしまう。
誰かのことを思うときの「不幸でなければそれでいいよ」という言葉はとても優しいけれど、魔女であり続けるには、——幸福でなくてはならない状況下では、「不幸ではないというだけ」という状況そのものに何の価値もない。
だから安達さんは、魔法を奪ったうえでその魔法を棄ててしまおうと考えたのだと思う。
魔法を棄ててしまえば、誰も幸福に執着することはなくなる。
クリスマスの贈り物の件も含め、堀さん自身苦しみを抱きながら、それでも誰も傷つかない階段島を諦めたくなくて幸せであろうとする。
少し言い方を変えれば、七草くんの「もちろん。君の魔法が、大好きだよ」という言葉によって立たされている。
この言葉の不安定さにいずれどこかで、大きく何かを掛け違えてしまわないかと心配になる。
堀さんの個人的な苦しみから救われることと、階段島での生活や魔法を天秤にかけて、魔法の方を選んだということなのだから。
堀さんとしての幸せよりも魔女としての幸せを優先することになってしまう。
きっと、七草くん自身その残酷さを分かった上で階段島を守り続けることに意義を感じている。
本当に大切な夢を諦めるのは不幸だ。幸せになれたとしても、不幸だ
p.262
ふたりの七草
便宜上、幼い頃に堀さんと階段を作り上げた方の七草くんを括弧付きで「七草」と書くことにします。
堀さんの苦悩と魔女であり続けることを天秤にかけて、非情になりきれず自ら消えることを選んだ「七草」。
凶器は壊れた黒の叫び。
作中では二通りの黒について表現されているのですが、片方はどんな色を混ぜても揺るがない黒、一方は些細な光でたやすく変化してしまう黒。
減法混色の光の三原色における黒と、加法混色の光の世界における黒。
七草くん自身、大切な女の子が苦しんでいるのなら二人で掲げた理想を取り下げてでも寄り添うことで見出すことのできる幸せもある、と肯定的に受け入れられるにも関わらず、自分自身に対して「七草」に対してどこまでもストイックで。壊れてしまった彼が「許せない」のだという。
例えば、「彼」が「七草」でなかったなら、七草くんは違う振る舞いをしたのだろうか。
頑なにもピストルスターに思いを馳せ続ける七草くんの姿勢に共感できる部分もあれば、どうしてそんなに真摯な気持ちを抱くことができるのかと私には届かない程の崇高さを感じる部分もあって。
その七草くんの思いは限りなく「純粋」であるはずなのに、何故だか寂しくてかなしい気持ちで胸がいっぱいになってしまう。
本当に、何故なのだろう。
多分、そうやって1人で何でも決め込んで折り合いをつけてゆく七草くんの先行きにきっと明るい未来を私には想像できないからなのだと思う。
それでも、彼にとっては、ピストルスターの傍に寄り添いたいと思ってしまうことが何よりの罪で。
一巻にあたる『いなくなれ、群青』でも七草くんは、真辺さんと一緒にいることを諦めた現実の自分が許せないのだというようなことを言っていたような記憶がある。
もしかしたら、彼があまりにも自分自身に期待をしていないことも、私がかなしいと感じる理由のひとつなのかもしれない。
透明な黒であり続ける
そうして七草くんは真辺さんの横で透明な黒であり続けることを選んだ。
いつか真辺が本当に苦しんで、悲しんで、もしも涙をこぼしたなら、やっぱり僕も傷つくだろう。真辺の理想ではなくて、真辺自身を守りたいと、少しは考えるだろう。だとしても。僕は彼女の涙を拭かない。その涙まで綺麗だと信じている。
p.361
この一節を読んで思わず、はっとする。
『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』で真辺さんに対して「明日にはこの子が笑っていて欲しい。」「ほら、こんなにも、彼女の涙を拭き取りたい。」という思いを抱いた現実の七草くんとはやっぱり全くの別人なのだと改めて思う。
「七草」が自殺をしてから、驚きやら理由の良くつかめない悲しさやらで感情がぐるぐるしたまま、七草くんは愛でも恋でもなく信念をもってして真辺さんと敵対することを選んで、その意味と行き着く先を想像したりと落ち着かなかったのですが、最後の場面の「なら、たくさん話し合おう」という真辺さんの台詞や今までと変わらない2人のやり取りになんだか安心感を覚える。
この、七草くんと真辺さんの選択に関しては本当に終着点が想像できなくて、階段島や七草くんたちの未来がこの先どうなっていくのか気が気でならない。
どちらかが折れて、恋でも愛でもなんでも、例えそれが俗にまみれていても構わないという気持ちもあれば、信念を曲げて妥協する2人の姿は見たくない、という気持ちもあって複雑な心境です。
最後に。
もう少しだけ。
時任さんはやっぱり先代の魔女だったんですね。
ただの観客に過ぎないと言いながらも、時折七草くんたちに目をかけるのはやっぱり時折さんの目にも危なっかしく見えるでしょうか。
この小説の登場人物たちはすべからくすきなのですが、無茶をするので時々心配になってしまいます。
純粋に安心して好いていられるという意味で、時任さんやトクメ先生、100万回生きた猫がたまらなくすきです。
このシリーズ、私にとって宝箱に仕舞っておきたいような言葉がたくさんあるのですが、最後に私がこの『凶器は壊れた黒の叫び』を読んで特に印象に残っている言葉を。
この台詞が、というより背景にある色々なものを加味した上で。
「頼むよ。僕は君の、不幸になりたくない。」
p.280