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『少年と少女と正しさを巡る物語 サクラダリセット7』

『少年と少女と正しさを巡る物語 サクラダリセット7』 河野裕

少年と少女と正しさを巡る物語 サクラダリセット7 (角川文庫)

 

新装版サクラダリセットシリーズ、最終巻。

前回、能力の存在をすっかり忘れさせられてしまった咲良田の住民。

その中で唯一記憶がある浅井ケイは未来のために、どのような行動を起こすのか。 

 

これまでのお話やその他の河野裕さんの作品についての感想はこちら↓

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※以下、今までのお話を含め、内容に触れているので未読の方はご注意ください。

 

 

 

本当に今までの集大成とも言えるような展開と結末。

これまでの登場人物たちが、立場はそれぞれ違えど、「能力の存在し続ける咲良田」の方にひと匙の幸福や正しさを見出していることに本当に胸がいっぱいにになる。

そしてそのほとんどがケイとの出会いによるものが大きいというところが。

 

伏線、というか、布石、もいっぱいあって、一番印象的なのが能力の使い方を忘れるどころかケイとの出会いすらすっかりなかったことにされてしまった春埼がリセットを使う場面。

初めてスニーカー文庫版を読んだ時にも目が覚めるようにハッとしたことを今でも覚えています。

誰よりも純粋に優しい彼女は、泣いている人をみつけた時、能力を使う。

p.71

 それこそ最も序盤で描かれた設定がここに来て生きるのか、というところに。

家族との別離にも相麻菫の死にも涙を流さなかったケイが、ただ幸せを願うことで涙を流すところに。

軽々しく「分かる」なんて言葉を使って飲み下してしまいたくはないけれど、それでも誰かの幸福を願って流す涙もある、ということは十分に理解できるし、私にもそういった気持ちを抱くことはある。

でも、何故誰かの幸せを願うだけで涙が流れるのだろう、とふと思う。

涙を流す根っこの感情は人それぞれだと思うけれど、私が涙を流すとしたら、すきな人が、幸せを掴めるはずの人がその幸せを享受できないのがかなしくて、くやしいからだと思う。

もちろん、誰かにとっての幸せがこうである、と決めつけるのは身勝手だ。

そんなことを言ったら誰かを思って流す涙なんて、身勝手の最たるものだと分かっているけれど、それでもその涙を綺麗だと思ってしまう。

 

 

 

ケイと春埼のやりとりで言えば、最後の「もちろん。僕は記憶力が良いのが自慢なんだ」というケイの台詞は当たり前に好きだし、

「どうして私の記憶を取り戻したいのか」という春埼の問いに対するケイの答え。

「約束したんだ。君と一緒に夕食を食べるって。できればその約束を、思い出して欲しいんだよ」

 それは比喩の一種だったが、でも、たくさんの真実が含まれている。

p.65

この一節は色んな思いがぎゅっと詰まっていて、本当に好き。

もちろんこの約束のためだけに、記憶を取り戻して欲しいのではないけれど、ケイが春埼と夕食を食べる約束を果たしたいからというのも真実だし、そこにはただ約束をしたからというもの以上の思いが込められているところ。

 

 

 

 

それから相麻菫とケイと春埼。

シリーズ通しての感想で繰り返し繰り返し言っているように、私は彼女が一見完璧なようでその実とてつもなく人間臭くてたまらなく好きだ。

「野良猫みたいだ」というのは菫を説明するのに作中で何度も使われてきたたとえだけれど、それが彼女の孤独と寂しさによるものだと、ケイは能力のない世界で気づくことになる。

つまり、能力がなければ、菫は何の変哲もない「普通の」女の子でいられたのだ。

それでも、ケイは能力がある咲良田を取り戻したいと願う。

菫に関してはずっと「スワンプマン」の問題が心に根ざしていて、能力によって生き返った菫は常に不幸を心に宿している。

これに関して、中野智樹の声を届ける能力の使い方はすごく優しくて希望があって、そういう意味ではシリーズ通して一番好きな能力の使い方かもしれない。

生まれながらにして未来を視る能力を持っていて、その能力に振り回されてきた菫だけれど、最後にはちゃんと居場所があって良かった、と思う。

菫も春埼も互いのことが羨ましいと言うけれど、対抗意識はあれど決して険悪なものではなくて、その思いがあるからこそより2人とも人間っぽくなったな、と感じる。

自分なんてと自棄になっていた菫が、表情の変化の乏しかった春埼が、なりたい自分をしっかりと持っているということに、なんだか嬉しくなってしまう。

 

 

 

 

そして、物語の結末。

やっぱりケイが大好きだ。

菫に対する好きとは違って、ケイに対してはそれこそ憧憬のようなものを抱いている。

無理難題でも私は何も傷つけないものになりたいし、いつだって誰かの幸せを願っていたい。

相麻菫が用意した物語で、彼女自身が救われることがないのだとすれば。

まったく違う結末を、書き足さなければならない。

p.83

 この一節を読んで、河野さんの別作品に登場するとある小説家を思い浮かべる。

ある種、当たり前かもしれないけれど、彼とケイはよく似ている。

shiyunn.hatenablog.com

 

 

浦地さんと対峙する中で引き合いに出されるカルネアデスの板に対するケイの回答がとても印象的だ。

勇気は褒め称えればいいし、愛情には感動すればいい。どちらも正解でいい。

優しいのではなく、ただの我儘だとケイは認識しているかもしれないけれど、私から見れば随分ケイは優しい。

「あらゆる不幸に抵抗するんです。できるなら、そんなものみんな、ひとつ残らず消してしまうんです」

p.259

 というケイの理想は確かに途方もないくらいの「理想」だけれど、そのためならば神にだってなりたいというケイの意志の強さは本編を通して何度も見てきた。

自己犠牲というと独りよがりなイメージも抱きがちだけれど、ケイは決して自分に酔って自らを犠牲にすることはない。

ケイが犠牲になることで悲しむ人が傷つく人がいると分かった上で能力を使うし、できることならそんな誰かが悲しむ方法なんて取るべきではないということも自覚している。周りはケイが正しいというけれど彼自身は間違ったやり方だったと感じている。

いつだって最善を尽くそうとする、ケイはやはり我儘だ。

それでもそんなケイの変わらずケイであり続けようとするところに、物語の多くの登場人物同様、惹かれてしまう。

 

 

 

どこかの感想でも書いたかもしれないけれど、この物語には絵に描いたような悪人は登場しない。

だからこそ、私はこの物語が好きだし、読みながら答えの出ないあれこれについて思いを巡らせてしまう。

 

 

今はアニメがどんな風に出来上がるのか楽しみで仕方がない。

2017.4.4