ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『きみの世界に、青が鳴る』

『きみの世界に、青が鳴る』 河野裕

きみの世界に、青が鳴る (新潮文庫nex)

 

 

『いなくなれ、群青』から始まる階段島シリーズ最終作。

 

読み終えた今はただひたすらに、とうとう終わってしまった、という思いが強い。自分の目で物語の結末を見届ける決意がなかなか固まらず、実際に読み始めるまでに随分時間がかかってしまった。

『いなくなれ、群青』から始まり、ままならなさに怒り傷つき涙した末に選んだ彼らの結末について、思ったことを書いていこうと思います。

いつものように。

私にとって、このシリーズがどのようなものであったかということも含めて。

 

 

※以下、作品の内容に触れています。未読の方はご注意ください。

 

 

 

 

 

階段島の在り方

大地にとっての幸せが、階段島の在り方にこれほどまでに密接に関わってくるとは思ってもいなかった。

 

魔法を巡って登場人物全員がそれぞれ幸せについて考えて、未来を想像しては絶望して苦しみながらも決して諦めはしない。

誰もが、自分ではない他の誰かの「幸せ」について必死に悩んでいるというのがとてもいい。

 

すごくすごく長い時間をかけて、ようやく大地に関して、それぞれの幸せに関して暫定案のような形で終止符を打ったけれど、結局物語の始まりと比べて階段島在り方自体はあまり変わっていないのではないかと思う。

依然、魔法は存在し続け、七草は階段島で暮らし、真辺と大地は階段島から去っていく。

 

でも、今の私には階段島がすごく優しい場所に見える。 

誰かの声なき声にも必死に耳を傾け、聴き取ろうとする、そんな優しさで溢れる場所。

ここで言う「優しさ」は決して万能ではなくて、誰かから見たら間違いだと指をさされる余地があることも十分わかっている。それでも最初に見た階段島より、素敵な場所に見える。

 

堀の魔法が目指していた在り方を考えれば、多分この種の「優しさ」は始めから存在していて、変わったのは階段島そのものではなくて、私の階段島に対する意識だと思う。

階段島に暮らす人たちを支える魔法が、たくさんの人が悩んだ末に成り立っているものだと、知ることができた。

 

 

少なくとも、この物語を読み始めた頃、階段島はどこにも行けないものが集まる、かなしい場所だと思っていたから。

 

 

佐々岡が新聞部で進路調査をしよう、と提案したのもささやかながら大きな変化だと私は思っている。

佐々岡や委員長の出番は少なかったけれど、この変化だって『その白さえ嘘だとしても』で見たように、堀の魔法が導いた未来のひとつだと私は信じている。 

そういう意味で、シリーズ作品の中でも『その白さえ嘘だとしても』は本当に大好きな作品。

 

 

 

七草の信仰

真辺に対する七草の信仰は、最終的にどこに行き着くのだろう、ということがこのシリーズの中でいちばん気になっていた。

 

魔法を使用し、際限のないシミュレーションの中で真辺が絶望し続けるのを横で見続けるような、信仰に殉じる結末だったとしても、きっと私は過度に拒絶はしなかったと思う。

 

 

ある意味、階段島シリーズは七草が信仰と折り合いをつけるための物語でもあると思っている。信仰を昇華させるでも、捨ててしまうでもなく。

もしかしたら、これが七草にとっての「大人になること」なのかもしれない。

 

ひとりよがりな信仰が、『凶器は壊れた黒の叫び』以降、より踏み込んだ形で堀の思いに触れ、真辺の七草に対する思いに触れ、遵守すべき感情が増えてしまった。もしかしたら、これは悲劇と呼びうるのかもしれない。

七草がたったひとりであったなら、いつまでも遠く遠く見えないピストルスターに眼差しを向けていられたのに。

 

七草の優しさゆえに、色んな人の困りごとまで引き受けて、その結果彼はひとりでは生きることができなくなってしまって、信仰を諦めるわけではないが、ひとり無理を通すことができなくなってしまった。

「君が堀の前から消えるなら、この先の彼女の悲しみは、みんな君のせいだ」

特にこの台詞が印象に残っている。

 

 

上手く言葉にできないけれど、七草が真辺にピストルスターの話を始める最後の場面、寂しくてあたたかくて本当に好き。

なんていうか、言葉にした瞬間、それはもう気高い信仰でも願いでもなんでもなくて、その感情は間違いなく目の前にいる誰かに向けている。

頭の中の七草が望む真辺の在り方を追い続けるのではなく、今目の前にいる真辺に対して、自身の信仰について言葉を紡いでいる。

「本当は好きでした」と告白するみたいだって思った。

寂しく感じるのは、多分、まるでそれが既に「終わってしまったもの」の話をするように響くから。

 

最後まで七草にとっての理想は理想であり続けるけれど、きっとそれを「今」の真辺に求めることに固執するのを諦めてしまったのかな、と思う。

 

 

また、『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』で真辺に対する感情を恋と呼んだ現実の七草が、最終的に彼女との結婚を選んだの、俗っぽくて本当にいい。

最大限にいい意味での、誉め言葉としての「俗っぽい」。

世で言う当たり前の幸せみたいなものを彼らが普通に享受しているの、すごく安心する。

 

 

 

七草とピストルスター

物語の最後まで、私が『いなくなれ、群青』で惹かれた七草のように、彼にとっての信仰を貫いたまま、鮮やかな方法で何もかも解決しくれることを心のどこかで期待していた。

 

語弊を恐れずに言うならば、だからこそ、この物語の結末は大切にしていた何かを損なってしまったような気持ちで少し寂しかった。

ただ、私が感じたこの寂しさは、一〇〇万回生きた猫が言うところの「きちんと寂しい方がいい」の「寂しい」なのだと思う。

 

 

 

思えば七草は私にとってのピストルスターだった。

いつまでも、真辺への純粋な思いを一部も形を変えることなく抱き続けていて欲しかったし、最終巻に至るまでの物語の中でどうしようもなく七草が傷ついていくのを見ていたくなかった。

 

彼との出会いが私にとってあまりにも鮮烈であったあまり、物語の展開を何もかも七草に託して読むようになっていた。

ただ、今振り返って思うのは、静かではあったけれど、七草は他の登場人物と同じくらいにあるいはそれ以上に、怒り傷つき涙していたということ。

『いなくなれ、群青』で見せたほんの一面だけで、私は七草を遠い場所に祭り上げてしまった。

 

 

シリーズ通して読み終えた今、私が七草に対してかつて抱いていたような信仰にも似た思いを向けることはない。

七草が本当に好きで、あの静かな嵐みたいな感情は二度と戻らないということを、ほんの少しだけ寂しいと思う。

私が二度と小学生の夏休みを過ごすことはないのと、似たような寂しさ。

 

 

 

『いなくなれ、群青』が刊行されてから5年。

こうして物語を通して、私の胸を焦がしていたひとつの大きな信仰が終わった。

 

終わってしまった。