ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

階段島シリーズ最終巻を前にもう一度よんだ/『いなくなれ、群青』

 『いなくなれ、群青』をもう一度

4月末に発売予定、階段島シリーズ最終巻『きみの世界に、青が鳴る』を手に取る前に、シリーズ作品をもう一度読み返しておこうと思い立って。

思ったことを書き残しておこうと思って。

 

『いなくなれ、群青』から『夜空の呪いに色はない』までの内容を踏まえた感想です。

シリーズ作品未読の方はネタバレにご注意を。

 

はじめて階段島シリーズを読んだ時に思ったことと、まったく同じ感想を抱くかもしれないし、もしかしたら正反対かもしれない。

以前に書いた感想は見ずに、純粋に今回思ったことを書いていこうと思います。

私が今回と以前の感想を比べるのは後のお楽しみ、ということで。

 

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

 

↓最初に階段島シリーズを読んだ時の感想はこちら。

『いなくなれ、群青』 - ゆうべによんだ。

『その白さえ嘘だとしても』 - ゆうべによんだ。

『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』 - ゆうべによんだ。

『凶器は壊れた黒の叫び』 - ゆうべによんだ。

『夜空の呪いに色はない』 - ゆうべによんだ。

 

 

 

 

どこにもいけないもの

何度読んでも「どこにもいけないものがある。」から始まる書き出しが好き。

 

いつも「どこにもいけない」と「どこにもいかない」という言葉の違いをぼんやりと考えてしまう。

 

階段島にいる人たちは、どこにもいけないのか、それともどこにもいかないのか。

きっとどこにもいかなくて済むように作られた場所だから、どこにもいけなくなってしまうのだと思う。

それが魔女の望んだ在り方であり、それが真辺の目には歪に映る。

 

 

 

そうして「できない」と「しない」という言い換えを、時に自分を正当化する言い訳のように使ってしまう自分自身を顧みる。

本当は「しない」だけなのに、それを「できない」と言うこと。

「できない」というのを誤魔化して目を逸らすように「しない」と言うこと。

 

自分から足を踏み出さないくせにどこにもいけないと言うこと。

自分自身がいちばん離れがたいくせにどこにもいかないと言うこと。

 

いつもいつも、そんなことを頭の片隅で思いながら『いなくなれ、群青』を読み始める。

 

 

七草にとっての階段島

魔女が悩みに悩んで、それでも優しい場所であってほしいと望んで階段島をつくりあげた。

そんな階段島を七草が何度もゴミ箱にたとえているのを見て、少しかなしい気分になる。

 

 

はじめて読んだ時にはあまり気にしていなかった表現なのだけれど、シリーズを通して魔女の正体を知り、魔女の苦悩を知り、いち登場人物として目が離せないひとりになった今、そんな彼女が精いっぱい守り続けてきた場所が、無意識とは言えゴミ箱にたとえられていることにやるせない気持ちになってしまった。

いや、無意識だから、なおのことやるせなく思うのかもしれない。

 

最終巻を前に、もちろん七草の理想の行き着く先も気になるけれど、魔女と階段島の在り方がどうなってしまうのかということも、とても心配している。

 

 

 

 

私が七草に抱いていた憧れ

この階段島シリーズが私にとって大切なものになった大きな要因のひとつは、『いなくなれ、群青』をはじめて読んだ時に、七草の真辺に対する理想がとても純粋で綺麗なものに映ったこと。

 

どこか遠く知らないところでずっと損なわれずにいて欲しいという、細やかな祈りのようでいて七草が唯一諦めることができないもの。

 

「恋」や「友情」という言葉で表される感情よりも、ずっとずっと自分勝手で自己完結していて、他人に抱く感情が最終的に行き着く場所のひとつなのだと思っていた。

 

 

 

今でも同じような憧れの気持ちは抱いているけれど、シリーズ作品を読み進めた今、高々と掲げた理想に七草自身が軋んで苦しむ様子がとても印象に残っている。

 

シリーズを読んでいくうちに、七草の理想を押し通そうとする頑固な一面の印象が強くなっていたので、始まりの物語である『いなくなれ、群青』において、理想を貫くことに躊躇う様子が描写されていることに驚いた。

 

『いなくなれ、群青』の終盤で「これが、最良なんだ。」と自ら言い聞かせる彼の姿は、私が七草に抱いていたストイックな印象とは少し違って、どこか幼く見える。

 

『いなくなれ、群青』というタイトル自体、七草が躊躇う場面で登場する言葉なのだけれど、はじめて読んだ時にはその理想の眩しさに魅入られるあまり、彼の迷いに目がいかなかったのだと思う。

 

 

僕は暗闇の中にいればいい。気高い光が、僕を照らす必要はない。

p.301

確かに彼の理想は気高いけれど、自らを貶めてまで胸の痛みを抱えながら貫こうとする姿は私を不安にさせる。

 

七草の優しさを主張するために真辺が言った「違うよ。七草だけが、私を見捨てなかった」という台詞を彼は聞きたくなかったと即座に否定する。

その場面でふと、初めから七草の掲げた理想はボタンの掛け違えのようなものなのかもしれない、と思う。

真辺という少女に理想を見出すあまり、目の前にいる彼女から少しずつ乖離してしまう。

 

七草の中で真辺をピストルスターたらしめているのは、真辺の挙動そのものではなく、七草自身の願いなのだと思う部分も、今はある。

確かに変わった部分はあるけれど、真辺は、七草が思うよりずっと普通の少女だと私は思う。

 

 

 

胸を焦がす程に抱いていた私の七草に対する憧れは、その色を変えて私の中に残っている。

 

七草の理想には賛同するけれど、七草の理想に対する在り方には賛同しかねる。

 

何もかもを犠牲にしてまで掲げるピストルスターを綺麗なものだと思っていたけれど、シリーズの中であまりにも七草とその周りの人々が苦しむのを、とてもではないけれど見ていられないと思ってしまった。

 

 

今でも、理想が潰える瞬間は見たくない。

その上で誰も傷つかずに苦しまずに済む結末を、望んでいる。 

 

 

 

群青と青 

物語の始まりである『いなくなれ、群青』。

そして最終巻の『きみの世界に、青が鳴る』。

 

 

「群青」がどのように「青」に変化するのかとても楽しみにしている。

 

 

『いなくなれ、群青』では、ピストルスターのあるべき美しい場所として「群青」が語られている。

 

シリーズ通して白や赤、黒など、空を想起させる色がタイトルに用いられているのもあり、青と言えば青空を連想してしまう。

 

ピストルスターのあるべき群青は、何万光年も離れた宇宙にある一方で、大気に光が散乱することによって現れる空の青はずっと身近なものだ。

 

もしかしたら、遠く高々と掲げた理想が形を変えてより身近なものに変わることもあるのかもしれないなと思う。

『いなくなれ、群青』を読んだばかりの頃であったなら、1ミリでも理想を傷つけ形を変えることは許せないと感じたかもしれないけれど、彼らが傷つき悩んできたのを見てきた今、そんな結末も悪くもないかな、と思ってしまう。

 

 

最終巻、どんな結末が待ち受けているのか分からないけれど、私にとって大切な階段島シリーズの幕が下りるのをちゃんと受け止めたいと思う。