『島はぼくらと』 辻村深月
久しぶりに読んだような気がします、辻村深月さんの作品。
私が読書が好きだ、と自覚し始めた頃にざくざくと読んでいたので、きっと「懐かしい」の意味合いを多分に含む「久しぶり」、です。
前回読んだ時からどれだけ実際に時間が空いた、というよりも気持ちの方です。
以下、内容に触れています。未読の方はご注意ください。
瀬戸内海に浮かぶ島で暮らす4人の高校生の物語。
今まで比較的「閉じた」環境に暮らしていた彼女たちだが、Iターンで島に訪れる人や島を活性化させようと仕事で訪れる人たちと触れ合うようになってから、島の未来、自分の未来をより現実的に見据えるようになる。
......こういう田舎の島が舞台だと『ぼくのなつやすみ』とか漫画『ばらかもん』を思い出してしまう。
ただ、今作はそれらの作品よりももっと生々しく人間関係が描かれているのだけれど。
母と祖母と一緒に暮らしながらも、時々大人の打算的な考えに触れることで今まで知りえなかった悪意や因習に戸惑う少女。
当たり前のように高校を卒業したら島を出ていくことになる若者が多い中、ひとり島に残って暮らすことが当たり前のように生きてきた網元の一人娘。
幼い頃にロハス計画のために移住してきたが、その後離婚で離ればなれになってしまった母親にどこか複雑な思いを寄せる少年。
船の時間があるため、高校の部活には島の子はほとんど参加しない中、演劇が好きで少しでも時間を見つけては部活に参加しようとする少年。
幻の脚本を探しに来た胡散臭い自称作家の話に始まり、様々な人が島に訪れるのですが、すぐにお話がまとまってしまうわけではなく、後々詳細が後日談として語られるのがなんだか小気味よい。ああ、あの後そうなったのね、とか、あの行動はそういう意味だったのね、とか。
島の4人の高校生たちが生々しい現実に直面する場面はとても胸がいっぱいになるのですが、ちゃんと自分たちなりに昇華して次に、未来に広がっていく感じに爽やかな気持ちになる。ソーダ水の泡みたい。
人間は、自分の物語を作るためなら、なんでにでも意味を見る。(p.150)
この一節が特に強く印象に残っている。
だから、私は綺麗すぎる善意とか言葉とかを時々放り出して、そういうものから逃げ出したくなるのかもしれない。
恋とか愛とか夢とかそういうものは、確かに素敵だけれど、色んな境があやふやになって、本来しっかり存在すべき最低限の垣根さえ易々と飛び越えてしまうような暴力性が、すきかきらいかでいえば、きらいなのだと思う。
(恋とか愛とか夢とかを引き合いに出してしまったけれど、まったくのとばっちり……)
謝罪の言葉も感謝の言葉も、きっとそこに本人なりの物語を見出しているのだろうけれど、謝られた側、感謝された側の人間の思いはほとんど置き去りにされてしまう。
ただ、その人が謝りたいから、感謝したいから、する。そこで、完結している。
今回、Iターンで島に暮らすシングルマザーとして描かれている女性がいるのですが、その女性の物語が、いちばん私には馴染んだような気がします。
(ところで、昔から思っていたのですが、言葉を耳にするたびに「Iターン」のどこが「ターン」? という疑問がよぎる。Uターン、Jターンが「ターン」しているのは、まだ、分かるのです。)
後半で別作品の人物が登場するのですが、赤羽環の名に、もう、テンション急上昇。
多分ここ数日の中でいちばんいい顔してた自信、あります。
辻村さんの作品の中でも特に『スロウハイツの神様』は好きな作品のひとつなのですが、まさか登場するとは思わなくて。
辻村深月さんの作品は時々こう言う風に嬉しい出会いがあるので、油断ならない、
演劇好きな島の子の脚本を環が読む機会があるのですが、環が「及第点」と告げる際にその言葉が決してお世辞などではないのが分かっているだけに、なんだかこっちまで嬉しくなってしまう。
辻村作品のほとんどは実家に置いてあるので、お盆で実家に帰った際に、『スロウハイツの神様』はもちろん他の作品も読み返すことができたらいいな、と思います。