『渦森今日子は宇宙に期待しない。』 最果タヒ
主人公の女子高生、渦森今日子は宇宙人。
どちらかと言えば、表も裏も女子高生なのだけれどそういえば宇宙人でした、という感じの。
同級生の友達と会話するのはすごく楽しいし、コンビニのアイスクリームは美味しい。
ある種何かに振り切った部活動の面々たちの挙動を心の中で冷静に突っ込みながらコミカルな雰囲気で物語は進んでゆく。
前に、同じく最果タヒさんの小説の『少女ABCDEFGHIJKLMN』を読んだ時に、舞城王太郎さんのお話読む時と同じスイッチ使うとかなんとかかんとか昔の私が言っていたみたいだけれど。
今回のスイッチは、相対性理論の音楽を聴く時と似てました。
最初にも触れた通り、あくまでも、 渦森今日子は女子高生としての感性を持って女子高生として振る舞うのだけれど、時折、夢とか未来とか現実とかそういうものにぶつかる度に、自信が宇宙人であることを引き合いに出してしまう。
それは、諦めだったり地に足着いていたりするのかもしれないけれど、そうやって知らぬ間に身についた癖のようにふと宇宙人であることを後ろ盾にする。
最後の最後に、そんな自分にほとほと呆れて、今までの選択に覚悟も何もなかったんだって、ふと気がつく。
主人公が宇宙人だから、なんだか壮大に感じてしまうけれど、夢とか未来とかいう言葉を口にするのにただただ甘美で煌びやかな味が抜けて、今までのその味は優しい誰かが肯定も否定もせずに「そうだね」って言っていてくれたからなのだときっといつか気がつく時がくる。
そういうゆらゆらとしたものとして、女子高生、渦森今日子がいるように感じる。
それから。
確かに愛を必要として当然とか、どこかでさみしいに違いないとか、そういうの言われるとむかつくね。アイシーアイシー。
p.97
時折、ぴしっと差し込まれるこういう一節に思わず唇を引き結ぶ。
だから、(ここで「だから」という接続詞を持ってきてしまうのはなんだか安直で薄っぺらですこしだけいやなのだけれど)
「心配してます、大丈夫ですか」なんて口にするのは、なんだか私の性には合わないのかもしれない、とか思ってしまう。
前にも何度か触れたかもしれないけれど、最果タヒさんの詩から入った私としては琴線に触れる一節に出会う度にぴりっとするのです。
どうやら、詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』が映画化するみたいで。びっくり。
池松壮亮×石橋静河で最果タヒの詩集を映画化、監督は「舟を編む」の石井裕也 - 映画ナタリー
映画ではどんな風に噛み砕かれて色を付けられていくのか、今から公開がたのしみ。