『余命10年』 小坂流加
余命10年というタイトル。
不遜ながら、(物語として描かれる)余命宣告にしては比較的長い余命だと、このタイトルを初めて目にした時に思い、興味を惹かれた。
おまけに個人的に好きなloundrawさんがカバーイラストを担当されているということで。手に取ってみることに。
以下、特段結末に触れることなく感想を書いていますが、最後に「私が読む前にできれば気が付きたくなかったこと」に関してつらつらと書いているので、未読の方は最後の部分は読まれない方が無難かと思います。
あらすじ
20歳になった茉莉は不治の病にたおれ、余命10年を言い渡される。
一度大きな入院はあったものの、それ以降は穏やかに生活することができるようになったものの、何をするのにも「自分は未来がない」のだという思いが先行してしまう。
趣味や人付き合いや恋愛......どれも、きっと最後まで遂げることはできないのだ。
しかし、茉莉がふさいだ表情をしているだけで、周りの人たちも罪の意識に苛まれるような表情をしてしまう。
そうして、茉莉は自身の未来に希望を抱くことを諦め、時には嘘を吐きながら、時には場当たり的に人付き合いしていくことを心に決めた。
病になってしまったことに起因する惨めさや苦しみに向き合おうとする茉莉の姿と、まわりの人たちの茉莉に投げかけるまなざしの柔らかさが印象に残る作品。
余命10年、病という名のコンプレックス
作中、茉莉はこれでもか、というくらい「普通の人」とは違うのだということを見せつけられることになる。
身体に残る大きな手術痕、社会人として働きに出ていないこと、死期が既に定まっていること、周りの人のために明るく振舞わなければならないこと......挙げ始めたらキリがない。
読みながら、終わりのないトンネルを彷徨っているような気分になる。
そうして気にも留めなければつまずくことのない「病に起因するあれやこれ」に思い悩み、ふさぎこんでしまう茉莉の姿に思わず心が痛む。
寿命だけでなく、余命宣告されたという事実が「今」をも奪い取っていくのだと思ったらとてもやるせなくなった。
中でも、特に印象的な部分をふたつほど。
欲しかったのは『君は大丈夫』という第三者の言葉だ。家族や友人じゃない、社会ときちんと繋がっている第三者の言葉。
p.56
これには、思わずはっとしてしまった。
確かに当たり前のように家族や友人からの言葉は甘くて優しい。
いつだって茉莉を擁護するし、肯定する。けれどもそんな言葉は茉莉の拠り所にはなりえないのだ。
誰かに「大丈夫」だと言葉をかけられるような第三者になりたい、と思う。
私の言葉が誰かの拠り所になるような、きちんとした第三者に。
甘い感情からじゃなくて、ちゃんと「私」として誰かを肯定してあげたい。
逆もまたしかり。
褒められるとなんというかその言葉だけで満足してしまいがちなので、ちゃんとその言葉に見合うように生きなければならないな、と思う。
おまけに「あなたは、生きる上で負い目などないのでしょう?」と茉莉に諫められているみたいな気分になる。
確かに、その通りだ。
「ありがとね」
精一杯笑った。優しさに満たされると同時に己の汚れに気付く。
p.63
これまた、この茉莉の気持ちはよく分かる。
無条件な優しさに浸かっていることに罪悪感を覚えることが、たまにある。
例えば私ならば、単なる「気落ち」で済む話だけれど、茉莉は自身の病を呪えてしまう。どうして私だけ、と。
そうやって恨めしく思う先に解決はなく、余命は変わりはしないのだと思うと、本来余生を覚悟を持って生きるための余命宣告自体が茉莉を苦しめていたのだと思うとやりきれない。
できれば気が付きたくなかったこと
初めて読む作家さんだったので、まず初めにカバーの袖に書かれている著者プロフィールに目を通しました。
本作の編集が終わった直後、病状が悪化。刊行を待つことなく、2017年2月逝去。
この一節を目にした私は、思わず巻末の刊行情報に目を走らせる。
今作品がはじめて単行本として刊行されたのは、2007年6月。およそ10年前。
著者がどのような病に侵されて、どのような半生を送ったのか分からないけれど、この作品が初めて刊行されてそのおよそ10年後に亡くなったのは偶然だと思いたかった。
そうでないと、物語の主人公が語る言葉の意味や重みが随分変わってきてしまう。
物語を読み始める前にこのことに思い当たってしまった私は、その後ページを捲りながら、主人公の茉莉が語る不幸や惨めさに紛れもなく「現実」を見出してしまっていた。
本当のことは分からないけれど、これは全部「虚構」の出来事なんだって信じていたかった。
普段だったら「あーかわいそう」で済まされるあれやこれも、それでは許されないような気になってしまう。
完全に私のエゴなのだけれど初めは「小説」として読んでみたかった。
もし「かわいそう」だなんて胸を痛めることがあれば、それは小説の主人公ではなく、現実を生きた著者を憐れんでいることになるのかもしれない、と思うと、目の前に綴られた出来事を消化するのに覚悟が必要になった。
そういう意味で、ある種邪道な考え方なのかもしれないけれど、この作品はクリティカルに私の印象に残る作品となった。なってしまった。