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ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『ifの悲劇』

『ifの悲劇』 浦賀和弘

ifの悲劇 (角川文庫)

ifの悲劇 (角川文庫)

 

 

浦賀和弘さんの作品にしてはページ数が少なくさくっと読めそうだったので、気軽にページを捲り始めてみた次第です。

とは言え、作品の構成だったりアクが強かったりするのは、流石浦賀和弘作品と言ったところ......。

私の中で、すっかり浦賀作品はぶっ飛んだものが多い印象。

書店で浦賀和弘さんの名前を見かけると、ついついシニカルな笑みを浮かべてしまう。

 

 

 

今回は浦賀和弘さんがパラレルワールドを題材にした物語ということで少し前から気になっていました。

妹を自殺に追い込んだ男を殺めた際、その目撃者を車で轢き殺した場合とそうでない場合の「もしも」の世界が交互に描かれていく。

どちらの世界の主人公も轢き殺さなければよかった、轢き殺しておけばよかったと後悔するというメタっぽい場面に思わずにやり。

物語が進むにつれだんだんきな臭さは感じるものの決定的な鍵を掴むことはできず、疑念が膨らみながら物語は佳境を迎え、そうして得られるカタルシス

最後に物語の顛末や真相が語られるのですが、真相を知っているかどうかで意味合いががらりと変わる台詞がいくつか仕込まれているのに、素直に驚嘆。

読後感という意味では割と大人しめだったので、単純に物語の構成にびっくりしたい人には、気軽におすすめできます。そうしてゆくゆくは『彼女は存在しない』とか読んで「なんだこれは」と打ちひしがれるといい。

 

彼女は存在しない (幻冬舎文庫)

彼女は存在しない (幻冬舎文庫)

 

 

 

 

※以下、ネタバレ含みます。未読の方はご注意ください。

 

 

 

 

 

 

別シリーズの主人公である桑原銀次郎が出てきて、昔の映画俳優みたいな名前だというお決まりの流れもあって、ちょっと嬉しい。

 

プロローグ早々、主人公が妹と体を重ねていて思わずにやりと口の端が上がる私。

ある程度そういうことも織り込み済みで読んでいるのですが、初めて浦賀作品を読む人の反応が見たい。

そのプロローグでの小説家と編集さんとの話し合いにて、パラレルものとして違う世界の出来事を口語に書くにあたり、各世界に共通した出来事はできる限り省略してしまえばいい、というのは完全にミスリードだったんですね。

その描写がないことで世界を分ける決定的なものごとに言及するのを避けることができるし、読む側としてはそれは手抜きではなくてその間共通のできごとがあったのだと補完される。

 

またエピローグでもあったように「彩がまだこの家にいたら――」みたいな、ネタバレ後に認識がすっかり変わってしまう台詞があるのが本当によくできてる......。

この変化の楽しみは本当に初読ならではのものですよね。

 

 

最近の、こういうパラレルワールドのような時空の隔たりを扱う作品は感動的な結末を迎えるものが多いのですが、そんなことにはまったくならない相変わらずの浦賀和弘作品っぷりに、逆になんだか安心感を覚えてしまう。

 

『八月の終わりは、きっと世界の終わりに似ている。』

『八月の終わりは、きっと世界の終わりに似ている。』 天沢夏月

八月の終わりは、きっと世界の終わりに似ている。 (メディアワークス文庫)

 

私としては『拝啓、十年後の君へ。』以来の天沢夏月さんの作品。

shiyunn.hatenablog.com

 

 

「夏の終わり」ではなくて、「八月の終わり」というところが本当によい。

自身の高校生時代の夏休みをつい、思い出してしまいました。

陽が差し込む畳の上で寝ころびながら本を読むのがたまらなく好きでした。

その時のなんとも言い表せない気怠さや哀愁がさらに色濃く描かれていて、あの時感じたもの寂しさに似た何かは世界の終わりに感じるそれと似ているのかもしれないと今にして思います。

 

 

※以下、作品の内容に具体的に触れています。未読の方はご注意ください。

 

 

今回の物語の主人公は、かつての恋人、透子の死を引きずり続ける大学生の成吾。

4年ぶりに地元に帰省した際に、当時高校二年生の夏に透子と交わしていた交換日記を手にする。

ある日、その交換日記に亡くなったはずの透子の字で新しく文章が綴られていることに気が付いた成吾は日記を通してやり取りを始めることになる。

 

現在と過去が交互に描かれながら物語は進んでいくのですが、過去の透子の死から一歩も動けずにいる成吾の感情を不健全だと思いながらもどこか綺麗だと感じてしまう。

誰だって思い出に縋るのはよくないって分かっているのに、完全に手放すことができない、みたいな欠陥が私にはどうしようもなく美しく見えてしまう。

 

 

 

 

世界の終わりだったり、透子のペースメーカーだったり、瓶ラムネだったり、色々な単語や物が象徴的に使われていて、今年の夏はラムネの瓶を見る度にこの物語のことを思い返すかもしれない。

透子の心臓が止まってしまった時に、成吾の中の生きていく上で決定的な何かも動きを止めてしまったのです。

だからこそ交換日記を通して縋るような思いでやり取りを繰り返す成吾を思うと胸が痛む。どうせなら透子の悲しみに暮れ続けたままで、再び交換日記を手にすることなんてなければ良かったのに、と思いかけてしまうほどに。

物語の結末として、結局透子の死は変わらない。

 

 

 

こういう物語を読むたびに、当たり前に人は死ぬのだということを思い出す。

私自身を含めて。

最後には透子の言葉によってまた前を向けるようになった成吾のように、未来、私の周りで何かあった時に立ち直れるかな、透子のように誰かに何かを残してあげられるかなと少し不安になる。

そんな時、何かをしようと小難しい言葉をこねくりまわしてしまうけれど、きっとシンプルな言葉でいいのだという答えを物語は私にくれる。

この物語でたまらなく好きな一節があって、透子の見ていた世界はきっとこのひとことにぎゅっと集約されるのだろうと思うと、どうしようもなく胸がいっぱいになる。

 

君の名前は、私にとってこの世界で最も美しい言葉だ。

 

 

とてもシンプルだけれど、その響きはとてもあたたかくて綺麗で。

私が思っている以上に、いつも通りでシンプルなもので私は生かされているし、そんないつも通りを誰かにあげられたなら、きっとそれだけで最強だと思うのです。

 

いつかの私が悲しみに沈み続けないように、というのも、私が物語を読む理由のひとつなのかもしれないなと思えるような作品でした。

 

 

 

 

余談。

この作品の表紙イラスト担当されているの、とろっちさんだったんですね。

この本がめでたく我が家の本棚に仲間入りした時にはそうとは気が付かなかったのですが、新装版『サクラダリセット』シリーズだったり『青の数学』シリーズだったり『三軒茶屋星座館』シリーズだったり、私の好きな作品ばかり。

(どんな作品も好きって言うくせに、とか野暮なことは言ってはだめです)

好きな小説が増えていくと、それに紐づくような形で好きなイラストレーターさんも増えていくの、すごくしあわせだけれど財布に痛い。

すごく、しあわせだけれど。

 

ここ最近になって本当に色々なイラストレーターさんの絵の雰囲気や名前を覚えたので、いずれ「このイラストレーターがにくい」みたいな記事書いてまとめたい......。

 

 

三軒茶屋星座館 1 冬のオリオン (講談社文庫)

三軒茶屋星座館 1 冬のオリオン (講談社文庫)

 

 

青の数学 (新潮文庫nex)

青の数学 (新潮文庫nex)

 

 

 

『神さまのビオトープ』

『神さまのビオトープ』 凪良ゆう

神さまのビオトープ (講談社タイガ)

 

 

作品を刊行される作家さんが本当に幅広く、毎月講談社タイガからどんな作品が出るのかチェックするのが私の楽しみのひとつ。

今回の『神さまのビオトープ』も刊行予定作品としておよそ1か月前から取り上げられていた時から気になっていたのですが、帯を目にした瞬間、そこに書かれていた惹句に撃ち抜かれて。

愛していいんだ、心に正解はないから。

夫の幽霊と暮らすうつ波を取り巻く、秘密を抱えた彼ら。

世界が決めた「正しさ」から置き去りにされた人々へ、救済の物語。

帯より

 

世界が決めた「正しさ」から置き去りにされた人々、とあるように、この物語に登場する人たちの関係性をシンプルに表す言葉はこの世には存在しない。

それくらい少数でそれくらいか細い。

 

 

 

※以下、ネタバレを含みます。未読の方はご注意ください。 

 

 

これは多少なりとも誰かから幸せを押し付けられて、生き辛さを感じたことのある人のための物語だ。 

事故死したはずの夫の鹿野くんが幽霊となってうる波の前に現れるところからこの物語は始まるのだけれど、決して紆余曲折あって最後には感動的な結末を迎えるような合縁奇縁を描いた物語ではない。

 

作中の言葉を借りるのであれば、この世の理を踏み越えているという実感はありながらも、ただうる波がそうしたいと思うから彼女自身の愛に殉じているだけだ。

当たり前のように鹿野くんのためにご飯をつくるし、自分にだけ見える鹿野くんに向かって言葉をかける。

 

もしも現実で私の周りに、こうしてうる波のように幽霊と過ごしている人がいると知ったら、きっとどこか「普通」ではないという印象を抱いてしまうだろう。

けれどそんなものは、余計なお世話でしかないのだろうと思う。

その非現実的な幽霊の要素と、うる波の現実感のさじ加減が絶妙で、ファンタジー要素を含んだ物語というより、この世界に実際に生きている誰かの物語だと思った。

自分の愛に殉じたいだけなのにどこか生き辛さを感じているという点でひどく現実味を帯びている。

読んでいるうちに、誰に迷惑をかけているのでもないし、うる波がそれで幸せなのだと言うのならそれでいいじゃないかという気持ちになる。

ただ彼らが幸せに生きていくためには、秘密と決意が必要で衆目にさらされてしまえば「善意」や「正しさ」なんてものであっけなくその幸せは壊れてしまう。

 

 

 

うる波の周りには様々な秘密を抱えた人たちが登場するし、当たり前のようにその「歪さ」を矯正しようとする人たちも登場する。

その度にこれはどうしようもないことなのだろうか、と思う。

世間に認められない幸せはひた隠しにするしかないのだろうか、と。

皮肉だけれど、きっと完全にフラットな世界にはならないだろうなと私は思っている。

私だってきっと無自覚に矯正しようとして誰かを傷つけてきたはずだ。

 

 

 

作中のある話で、ロボットとしか心を通わさない少年が登場する。

最後にロボットは少年を守って壊れてしまい、新しいロボットを用意しようと父に提案されるけれど、少年にとってのロボットは唯一無二で、誰も代わりにはなれないんだと少年はその提案を断る。

そんな彼の台詞に思わずぐっときた。

彼の友情に、ではなくて、彼の幸せに代替はないのだということに。

 

 

 

ある程度は自分で守らなくちゃいけないのだ。

そういう意味ではうる波は決意に満ちていて、とても強い人物だと思う。

他人に認められないということに心細さを感じる場面はいくつかあれど、いつだって幽霊の鹿野くんと過ごすことが自身の幸せだと信じている。

うる波だって鹿野くんとずっと生きていたかったと切に思っている、だからこそ、幽霊の鹿野くんとこうして過ごしていたいと願うのだ。別の誰かと仲睦まじく暮らすことではなく、それこそが、うる波の幸せなのだ。

 

 

 

もちろん誰かが傷つかないように想像力をはたらかせることは必要だけれど、自身の幸せを守るために無自覚な誰かの言葉に必要以上に傷つく必要はないのだと思った。

 

 

私の幸福感に沿う幸せをいちばん享受できるのは、紛れもなく私自身なのだ。

『さよならのための七日間』

『夜桜荘交幽帳 さよならのための七日間』 井上悠宇

夜桜荘交幽帳 さよならのための七日間 (富士見L文庫)

 

五感すべて及び第六感で「多分これ、好きなやつかもしれない」と感じ取って手に取る枠。

書店とかネットとかでぼんやり眺めてると、時々もとい稀によくあるやつ。

こういう時、その衝動に実際に従うかどうかは本当に時の運というかちょっと匙加減なのです。私でもどこに境界線を置いているのかよくわからない。でも、手に取らなかった場合、「気になっていた」という記憶だけが残って何の本だったかすっかり忘れて、そのことを後悔してしまいがちなので、できるだけ素直に衝動に従っていきたいとは思っているのです。

 

今回、多分私が手に取る決め手となったのはあらすじにあった、主人公の姉が吐いたという嘘。どんな嘘なのだろう、きっと、とびきり優しいものなのだろうな、と想像したら気になってしまって。

ある日、主人公の男子高校生、春馬の元に亡くなったはずの姉の葉子からの手紙が届く。手紙にあった古いアパートに足を運ぶと、そこには幽霊となった姉の姿があった。

そこに住まう管理人のような役割を務める鬼、薄録の言葉によれば、49日までの地獄送りを一旦保留されたものが集うアパートだという。地獄送りを取りやめにしたくば、潔癖を証明しその旨を閻魔帳に記すよう告げられる。

嘘を吐いた罪によって地獄行きを命じられたという葉子の調査を早速始める春馬だが、葉子は肝心の嘘についてまったく話そうとはしなかった。

 

 

巡り巡って姉の閻魔帳作りの役に立つ、という薄録の言葉に唆されるように春馬は色んな人の閻魔帳作り――あらゆる罪状の無罪の証明を行うことになる。

まず薄録のキャラがのらりくらりしていてゆるいのなんのって。

角が着脱式なのとか金棒の代わりに煙管を口にするとか、それでも料理好きで下の感覚が鈍るから決して煙管に火をつけることはないとか、十全の愛をもってして「テキトー過ぎるでしょ」と言いたくなる。

 

この閻魔帳作りというのですが、案外鮮やかに様々な罪がクリアになっていくのがとても面白かったです。

いい意味で、離れ業、力業。ちょっとした問答みたいで、確かにそう考えれば罪でもなんでもなくなってしまうな、という結末が待ち受けている。

すごくいいな、って思ったのが、確かに死んだ時点では罪に問われるべき行為だが、その人の死後にどのように周りの人や環境が変化したかによって地獄行きを覆すことは大いに可能だということ。

誰かが生きた意味を、死んでしまった意味を、残された人たちが色付けていく感じに、そうして巡り巡って死んでしまった本人も救われていくところが。

 

 

そして、葉子が春馬に吐いた嘘の内容ですが、まずはお話の構造として、薄録の言葉通り春馬のおこなってきたいくつかの閻魔帳作りが、ちゃんと布石として葉子の閻魔帳を作ることに繋がっているところに、感嘆。

そして、あらすじを読んでいた想像していたものよりも葉子の吐いた嘘は、私にとって人間臭いものでした。だからこそ、嘘を吐いてしまったことに「どうしようもなさ」が滲み出て、それによって地獄行きになってしまうことに一抹の切なさを見出す。

きっと姉、弟の関係でなくとも誰でも抱き得る感情なのだけれど、姉と弟として長く時間をともに過ごしてきたからこそ、葉子は嘘の内容を春馬にひた隠しにしたのだし、春馬は葉子の言葉から最後にはその嘘に気が付くことができたのだと思う。

 

 

 

 

それから最後に。

 

「きたいはあらゆる苦悩のもとだな、春馬。それでもわたしは鬼きたいしているぞ」

もう1人(?)、蒼命という名の舌足らずでおさな可愛いポジションの薄録の目上の存在となる鬼がいるのですが彼女のこの何気ないひとことが好き。

特に、それでも、ってところ。......よくない?????? 鬼よくない??????

 

 

 

 

友麻碧さんのあやかし夫婦のシリーズ含め、私の中ですっかり富士見L文庫は、幽霊あやかしものに厚い、という印象になってます。(レーベルに限った話ではなくて、キャラ文芸全般的に幽霊あやかしものがトレンドになっている、というのもあるのかもしれませんが)

浅草鬼嫁日記 あやかし夫婦は今世こそ幸せになりたい。 (富士見L文庫)

浅草鬼嫁日記 あやかし夫婦は今世こそ幸せになりたい。 (富士見L文庫)

 

 

 

 

あとから気が付いたのですが、『きみの分解パラドックス』と同じ作者さんだったんですね。

きみの分解パラドックス (富士見L文庫)きみの分解パラドックス (富士見L文庫)
 

 

 こちらも書店で平積みになっていたのを新刊として刊行された当時何度か目にして印象に残っていたのです。

これも、依然として気になってはいるのです。ちゃんと、いつか読みたいな、とは思っているのです。

ちゃんと。

 

『リリエールと祈りの国』

『リリエールと祈りの国』 白石定規

リリエールと祈りの国 (GA文庫)

 

どんなものでも大聖堂に捧げられた祈りは成就してしまうという不思議な都市を舞台にした物語。

主人公のマクミリアは、何故だか仕事が長続きせず解雇されてしまい、空腹に行き倒れていたところを「戒祈屋」を営むというリリエールの世話になることに。

マクミリアの仕事が長続きしないのは誰かの祈りのせいで、リリエールはそんな祈りを解除することのできる稀有な存在だという。

 

コミカルな要素を含みつつ、飾らずざっくりとした物言いのキャラクターが多くテンポよく会話が進んでいくのですが、時折見せるシニカルな部分がたまらなく好き。

像に下着を穿かせる怪盗だったり、邪な理由で祈りを捧げて恋愛観がぐちゃぐちゃになったりするシーン(簡素に言えば百合至上主義世界)は、それこそ(いい意味で)「阿保らしい」と思いながら読み進めていたのですが、捧げられた祈りがなんでも叶うからこそ、祈りを廃止しようとしない国政を批判するものたちが現れ始めて。

 

なんていうか、こう、物語の構図上、レジスタンスとして祈り廃止を支持する人たちが据えられた以上、普通だったら主人公サイドは、なにかと良かれと思う理由を持ち出して祈りが存在する世界を肯定するというのが私の認識なんですが。

祈りにすっかり浸っているこの世界はもう既に終わってると言い放つ主人公に思わず痺れる......。マクミリア、作中は本を読み聞かせしたり、図書館で出会った少女を救ったりと、面倒見がいい一面を何度も垣間見ることができるのですが、その一方で冷めたものの見方をしていて、思わずそのギャップにどきりとする。

 

この国を変えたければ、ただ大聖堂が朽ちるのを待つしかないとい言うマクミリア。

そしていつか、本当に終わりが訪れたとき――そのとき後悔すればいい。好き放題やってきた過去を。下らない祈りに費やしていた時間を。

この突き放すような一節が、いちばんすき。

 

 

それから、作中、イレイナという名の魔女が登場します。

まあ、私がいちいちここで言及するまでもないと思いますが、彼女が主人公の『魔女の旅々』という別作品があるのです。

魔女の旅々 (GAノベル)

魔女の旅々 (GAノベル)

 

 

 

もともと、その作品を読んでいたのがきっかけで今回の作品も手に取ってみたのですが、作中『魔女の旅々』と思しき作品に触れられている部分があって、ふいうちだったということもあり、その内容に思わずげらげら笑ってしまいました。......口惜しい。

マクミリアが好きな魔女が登場する物語の未だ見ぬ4巻を探す場面にて、港の露店のおっちゃん(モブ)の「それ三巻打ち切りって噂だぜ?」のひとことの破壊力たるや。

というのも。

この『リリエールと祈りの国』が”刊行された当時”は『魔女の旅々』は(大人の事情で)三巻でシリーズが終了という話だったのです。

 

そう、刊行された当時は。

それがこの度4巻も刊行される運びとなったようで。めでたい。

 

魔女の旅々4 (GAノベル)

魔女の旅々4 (GAノベル)

 

 

 

今回の祈りが存在する世界設定だったり、ちょっとした小道具だったり、そういう魔法めいたものが何より嗜好にどんぴしゃだったので、『魔女の旅々』含め、この一連のシリーズをゆっくり追いかけていきたい。

 

 

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背景に乱雑な本棚が写り込んでいるけれど、『魔女の旅々』の感想もまた追々ブログに書いていきたいな、と思っています。

そのうち。多分。いずれ。死ぬまでには。

 

 

『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』/岡田麿里 を読んだら、物語のキャラクター達が一層愛おしくなった話。

学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで

 

アニメ「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」――通称「あの花」があまりにも好きすぎて、本書を手に取って読んでみた。

その他にも「とらドラ!」だったり「花咲くいろは」だったり「凪のあすから」だったり、気が付けば私の心に残っている作品の中に、岡田麿里さんが脚本、構成を手掛けた作品がいくつもある。

岡田麿里さんの作品に登場するキャラクターは見ているこちらが痛ましく思うほどに不幸な目に遭いがち、というのが私が抱いているざっくりとした印象だ。

恋愛感情だったり憧れだったりを拗らせて、他人を傷つけ自身も傷つけられていく様は、ときおり見ていられなくなるほどに痛切な思いでいっぱいになって胸が締め付けれる。(私が先ほど挙げた作品は特に)

それでも。

それでも、それがフィクションの中で行われているただのお芝居だとは思えなくて、少しでもこのキャラクター達に救われて欲しくて、縋るような気持ちで続きを見てしまう。

 

 

そんな岡田麿里さんが脚本家になるまで、そして「あの花」「ここさけ」のキャラクター達を生み出すまでが描かれている。

小学校をなんだか通いづらいと感じ始めてから、秩父の町を出て初めて脚本を書くまでに半分近いページが費やされている。

そうして、岡田麿里さん曰く緑の檻を飛び出し東京の専門学校に通い、シナリオに興味を持って

人間関係の摩擦だったり、母親との確執だったり、描かれている内容は決して明るくなく、読んでげらげら笑えるようなものではない。

私にとってこれはエッセイというより、れっきとしたひとつの物語だった。

 

 

「登校拒否児」としての学生時代

彼女が本格的に学校に行かなくなるまでの中で決定的な場面として描かれている中学時代の出来事が印象に残っている。

自分を押し殺して偽って通い続けた中学校だったが、数日休んだのをきっかけに「登校拒否児」のレッテルを貼られ、頑張る気力がなくなってしまったという。

 

簡単に共感、なんて言葉を使って消費していいものではないけれど、そんなことを言っていてはどうしようもないので、「分かる」という言葉を使ってしまうけれど、多少なりともこの生き辛さは分かる部分がある、と感じた。

 

 

私自身、学校ではないけれど、小学生のころスポーツの習い事をしており、ちょっとした折に小さな地域選抜チームのようなものに選ばれることになった。もともと通っていたチームとは別に週に一度、選抜チームとして集められた小学生たちと一緒に練習するというものだった。

私は、この選抜チームの練習に行くのがたまらなく嫌だった。

ただなんとなくで始めた習い事でただ走り回っていればいい、というものから、いきなり練習は本格的なものになった。

当然のことながら、集められた小学生の中で私がいちばん下手で知識もまったくなかった。みんな当たり前にできるようなことが、私だけできなかった。そうして私だけできないということが時折練習中笑いの種になるのが本当に、嫌だった。

それこそ練習後、毎週家に帰ってはひとり風呂場で泣いていた。

 

練習日は木曜日だったのだけれど、下校途中に車道に飛び出して骨折でもしてしまえれば、なんて木曜日が来るたびに小学生並みの真剣さを伴って考えていた。

ある日、チームメイトから何気なく言われた言葉があって、その時のことを今でもはっきりと覚えている。

そのチームメイトに悪気があったわけではない、というのはちゃんと当時も感じていたことだけど、

「練習してて楽しい?」

このひと言に、思わず練習中なのに涙が流れてしまった。

私自身嫌々ながらも、ちゃんとそれなりに頑張って上手くやれているつもりだったのに、他人からそんな風に見られているというのがすごくショックだったし、そんなもの楽しいわけがない、と言えるものなら言いたかった。

 

それでも「続けることが大事」なんて言葉を信じて、結局なんとか目標とする大会が終わるまで休まず通い続けたのだけれど、打ち上げでもらったちょっとしたご褒美としてもらったストラップはその帰り道すがらに捨てた。

 

 

そんな風に多少なりの共感を伴って読んだからこそ、私はここに書かれているのは物語だと感じたのだし、その後に綴られている「どのようにして脚本家を志した」のか「どんな思いを込めてシナリオを書いているのか」という内容に一層興味を持って読むことができた。

 

シナリオを最初から最後まで書くということ

岡田麿里さんは脚本家になる上で大きなハードルのひとつとして、最後まで書ききること、と挙げている。

今まで自分の中で、溜めに溜めていた「自分がいつか世に出すはずの何か」のイメージは、どんどん膨れあがって「まだそこにはないが、とても素晴らしいもの」になってしまっている。それを実際にシナリオとして書いてみると、ふわっと描いていたイメージには遥かに追いつかない。自分はこんなはずじゃない、これで自分を判断されたくないという恐怖。

 

岡田麿里さんがこうして脚本家になることができたのは、高校時代の先生のおかげだけれど、本書を読んでいて節々に岡田さんはすごくガッツがある、と感じる部分がある。

なんの見通しもなく作品に感化されてトラックの運転手になればいいやと思っていた経緯もサイコーにロックだと思った。

それこそ「登校拒否」とか「引きこもり」なんてものはほんのきっかけでついてしまったレッテルに過ぎないのだと感じた。

もちろん、私自身も他人の目を気にしがちなので「過ぎない」のひとことで片付かないことは分かるけれど、それでもただただ人間として不能なのではなくて、ただ社会が生きやすい形ではなかったというだけ、なのだと思った。

 

 

「本当に書きたいもの」として書いた登校拒否児が主人公の物語――「あの花」

私はこの本を読むまで、岡田麿里さんがいわゆる「登校拒否児」だということを知らなかった。

もちろん「あの花」の主人公であるじんたんの生活ぶりだったり、他人の目を気にする様子に岡田麿里さんの経験が反映されていることも知らなかった。

もやもやを吐き出したいという欲求はまったくなく、登校拒否児は魅力的なキャラクターとして成立し得るか、という興味からこの題材を扱うことにしたという。

 

もともと、じんたん含め「あの花」に登場するキャラクター達は大好きだったけれど、この本を読んでから一層好きになった。

ただのキャラクターから、より人間っぽい印象を抱くようになった。

なんていうか、こう、好きな人の出身やバックボーンを知ることができただけでなんだか嬉しくなるような気持ちに似ている。

冒頭で触れた、岡田麿里さんの描く痛々しい程の人間関係だって、彼女の学生時代の人間関係に苦心した経験があったからこそ、現実感を伴って私の心を切り裂くのだと思ったら、ものすごく腑に落ちた。

 

 

おわりに

良くも悪くも、今後脚本、シリーズ構成に岡田麿里の字を見かける度にしばらくは今回読んだあれやこれを思い出して、色んな思いが溢れる状態で作品を見てしまいそう。

それを豊かと見るか余計なバイアスと見るかは人によるだろうけれど、私はこの本を読むことができて良かったと思っている。

つい先日、「あの花」をまるっと見返したばかりなので、今は劇場版を見返したい気分。

本当に余談の余談になるけれど、実は劇場版サイトのBlue-ray DVD完全生産限定版特典映像レビューという場所にひっそりと私のコメントも載っていたりする。

数あるうちのひとつだし、手書きだったため「しゆん」ではなく「しゅん」表記ではあるけれど(ネット上でもたまに勘違いされるのでもっと分かりやすいものにしておけばよかったと時々思う)、好きな作品にそっと花を添えることができたということがただただ嬉しい。

www.anohana.jp

 

心が叫びたがってるんだ。」に関しても、小説として刊行されたものを読んだきりになってしまっているので、近いうちに映像としてもばっちり観ておきたい。

 

小説 心が叫びたがってるんだ。

小説 心が叫びたがってるんだ。

 

 

 

『プールの底に眠る』

『プールの底に眠る』 白河三兎

プールの底に眠る (講談社文庫)

 

 

自身を取り巻く状況や心の持ちようはいつだって同じじゃないし、その時々によって大好きな小説は変わりゆくものだけれど、「今好きな小説は何?」と訊かれたならば間違いなく3本の指に入るこの作品、『プールの底に眠る』。

 

初めて読んだ時の衝撃を今でもはっきりと覚えている。

今まで主にエンタメ小説の楽しみ方しか知らなかった私は、この作品を読んでここまで琴線に触れる物語があるのかと、度肝を抜かれた。

この小説は間違いなく私みたいな人間のためにあると感じた。

他人にそうであってほしいと願うほどの幸せが、自分にはちょっと不釣り合いだと感じてしまうような。

万人受けするかどうかなんてどうでもよくて、ただただ雰囲気が、ちょっとした言い回しが心の温度に馴染んだ。

それ以来、白川三兎さんの作品を買っては深い夜にひたひたと浸かりながら読むのが癖になった。

 

 

久しぶりに読み返したので、今回感じたことを文字に残しておこうと思って。

 

 

まず何よりも書き出しがたまらなく好きだ。

眠れない夜にイルカになる。

主人公の男子高校生の少年が老いたイルカの最期に思いを馳せる場面から始まるのだけれど、静かでそれでもどことなくあたたかくて、ついつい口寂しくて飴をなめてしまうみたいに、折に触れてこのイルカの話を思い返してしまう。

 

主な登場人物はこの主人公とその幼馴染、そして裏山で自殺未遂のところを主人公の彼に見つかって自殺を思いとどまる少女。

まず、この主人公と幼馴染の関係が本当に良い。

作中彼らが最終的に恋仲になることはないのだけれど、それでも彼らの間に流れる、かと言って単なる友人として割り切ることのできないどうしようもなさに心を鷲掴みにされる。

2人とも互いを気遣っているから、私の中ではお互いを見つめる眼差しは優しくてそれでいて、ちょっぴり羨望を含んでいる。ただただ相手を傷つけてしまうことを恐れていて、そこから一歩踏み出すだけの覚悟があったならまた違った関係になったのかもしれないが、きっとそんな覚悟など必要としていない。

 

お互い30歳までに本物の愛が見つからなければ結婚しようよ、と話をする場面がある。

決して冗談で言っているのではないけれど、彼らが結婚することはないだろうな、と思ってしまうような雰囲気が絶妙。恋愛とか片思いとかそういうすれ違いではなくて。なんというか、恋とは縁遠い方向に、互いを少しだけ特別視しすぎている感じ。

 幼馴染は主人公のことを布団の中で想っても眠れなくなるどころか逆に熟睡できるというし、

主人公は笑ってなくても幼馴染のことは凄く好きだから、無理して笑う必要はないのだと臆面もなく言ってのけてしまう。

私はそれを愛と呼んでもよいのではないのかと思うのに、彼らは互いを過大評価するが故に、ここに本物の愛はないという。

本当にこの場面はただひたすらに優しくて、なんだか哀しい。

 

 

一方、主人公と自殺未遂の少女。

互いを名前ではなくイルカ、セミと呼び合い、交わされる会話は年齢不相応に大人びていてどこか浮世離れしている。

のらりくらりとしたセミの言動に翻弄されながらも、心を亡くしたというセミに少しずつ惹かれていく。

最終章では、時間は一気に進み主人公は図書館で勤務する妻帯者となっている。

それでも先の夏のセミと過ごした7日間のことをずっと悔いている。

初めて読んだ時は作品の静謐な部分ばかりに共感して、そこをひたすらに自分の中で増幅して反芻して浸っていたのだけれど、改めて読み返してこの作品の前向きな結末にここまでやわらかい気持ちになるとは思ってもいなかった。

そうして、以前ほどどこか後ろ暗い気持ちを抱かなくなったことを少しだけ寂しいと思う。

何かに罰せられていなければならないような気がする、幸せを享受するのに相応しくないという主人公を見て、共感というより痛々しくて見ていられないような気持ちになる。君は十分優しい、頼むからそんな悲しいこと言わないでくれ、と。

そうして、最後には過去ではなくちゃんと今を見ることができるようになった主人公の姿にどこか安心する。

この結末を綺麗だと感じる気持ちに変わりはないけれど、以前のように感傷的な気持ちでいっぱいになることはない。

多分、この作品のそういう部分から私が少しだけ離れてしまったのだ。

 

 

あの時の感性が死んでしまったのだ、なんて今の私が過去の私のことをしたり顔で語るのは傲慢だって最果タヒが言ってた。だから多分、感性だけでなく、過去の私ごと死んでしまったのだ。死人に口なし。

十代に共感する奴はみんな嘘つき

十代に共感する奴はみんな嘘つき

 

 

その変化を少しだけ悲しいと思うのは今の私の身勝手だけれど、過去の私がこの『プールの底に眠る』で少しだけ生かされていたという事実だけは胸に留めておいてもいいと思っている。

未来の私の好きな小説の3本の指にいつまでも入っている保証はないけれど、いつまでも私にとってかけがえのない作品であることに、変わりはない。

 

 

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