『わたしの美しい庭』 凪良ゆう
ここ最近、私が一番新刊の発売を心待ちにしている作家さんの作品。
凪良ゆう作品、ありのままを否定しない優しさで溢れているので、本当に読んでほしい。
あらすじ
小学生の百音と統理はふたり暮らし。朝になると同じマンションに住む路有が遊びにきて、三人でご飯を食べる。百音と統理は血がつながっていない。その生活を“変わっている”という人もいるけれど、日々楽しく過ごしている。三人が住むマンションの屋上。そこには小さな神社があり、統理が管理をしている。地元の人からは『屋上神社』とか『縁切りさん』と気安く呼ばれていて、断ち物の神さまが祀られている。悪癖、気鬱となる悪いご縁、すべてを断ち切ってくれるといい、“いろんなもの”が心に絡んでしまった人がやってくるが――。
周りからのお見合い話に疲弊してしまう独身女性、過去の恋愛を引きずる同性愛者の青年、東京での激務から心を壊し地元に帰ってきた男性。
それぞれが生きづらさを抱えながら暮らしている。
そんな生きづらさを抱えたままでも、何もかも受け入れてくれるような優しさに満ちた物語。
分かりやすい普通の正解なんてない
この物語に誰もが納得するような結末は存在しない。
物語の中で各人が抱える悩みすべてがすっきり解決されることはない。
もしかしたら、人によっては結末に物足りないと感じることもあるかもしれない。
それでも、私はこの物語が、この物語に生きる人たちが好きだ。
特に、他の登場人物の心理描写と比べて、百音と統理の「血のつながらない親子」関係について深く踏み込んで語られることはない。
それでも交わす言葉の節々から、ふたりが過ごしてきた時間と信頼関係が伺える。
描写が少ない分、なんというか、ちゃんとふたりの関係はふたりだけで完結してるんだなって。
血のつながらない「なさぬ仲」であることから、周囲から好奇の目にさらされるけれど、娘と父という関係にとらわれず、ひとりの人間同士として関係を築こうとするのがとても良かった。
百音と統理の関係に限らず、この物語に登場する人たちの立場や状況が作中、劇的に変わることはない。
依然として時に後ろ指を指されることもあるけれど、悩みながら自身の気持ちと向き合う彼女たちはとても真摯だ。
時に縁切り神社の力を頼りながらも、自分たちにとって必要なもの、不必要なものを切り分けていく。
自分に合った足取りで、自分に合った色や温度を選び取っていく。
彼女たちの物語はこの先も確かに続いていくし、緩やかに好転していくはずだという仄かな予感がとても心地よい。
不幸かどうかは私が決める
「かわいそうだね」という言葉は、時に残酷だ。
その言葉が親切心からくるものであったとしても、あるいは、親切心から出た言葉であるがゆえに。
「幸せかどうかはわからないけど、本当に本当に悲しくて不幸な状態に居続けられるほどわたしは強くないから、今、少なくとも不幸ではないんだと思ってる」
物語の中で、とある理由からまだしばらくは独身のままでいようと心に決めた桃子の、この台詞がとても印象に残っている。
もしかしたら、人によっては頼りなく響くかもしれないけれど、私の眼にはとても心強く映る。
幸せも不幸せも、もっと自分勝手なものでいいんだ、という気持ちにさせてくれる。
世の中、ぴかぴかした幸せばかりが目に付いて、手元のカードと見比べてはみすぼらしく感じてしまうこともあるけれど、「少なくとも不幸ではない」という感覚を大切に抱いていたい。
道を行く人々、ネットで見かける人々、その誰もが自身に満ち溢れて見えるけれど、私は私のままでいいのだと、そっと隣に寄り添ってくれるような柔らかく優しい物語でした。
明日からは、また少しだけ視線を上げて生きていける。
凪良ゆう作品との出会い
最後に少しだけ、どうしても書いておきたかったので。
『神さまのビオトープ』との出会いが、私にとって本当に鮮烈で。
「自分自身の愛に殉ずる」という言葉を、作品を読んで以来、いつも胸に抱えて生きている。
この作品、文庫で手にも取りやすいと思うので、本当に読んでほしい。
Amazonのほしいものリスト公開してくれたら、送り付けたいくらい。
それから、感想をブログにアップできていないけれど、『流浪の月』も、とても心に残る作品なのでぜひ読んでほしい。
ありのままを否定せず、受け入れてくれるような優しさはもちろん、私は無意識にラベルを貼って誰かを傷つけてはいないだろうか、とどきりとさせる物語。