『雪には雪のなりたい白さがある』 瀬那和章
雪には雪のなりたい白さがある、というタイトルの響きがとても印象に残っていて、つい先日この作品が文庫化されているのを見かけたときには喜び勇んでレジへ。
港の見える丘公園、あけぼの子どもの森公園、石神井公園、所沢航空記念公園、と実在する公園を舞台にした物語。
それぞれの春夏秋冬の趣きや公園を訪れた人の心の機微を描いた短編集。
基本的にどのお話も独立しているものの、一貫してコンプレックスに起因するような心の中の複雑な絡まりがほどかれていく様子が描かれていて、読後には胸のすくような物語でした。
いちばん印象に残っているのは、夏のあけぼの子どもの森公園を舞台にした『体温計は嘘をつかない』。
主人公は子どもを連れて離婚した女性に会いに行く男性。
この男性のキャラクターというのが、いやに人間くさくてすきだ。
物語全体を通して、この男性の感情の動きや言動すべてが肯定されるべきものではないのかもしれないなとは頭で思いながらも、共感できる部分が多々あった。
期待だとか諦めだとかそういった一方的な感情で誰かを推し量ってしまうが故のすれちがい。分かってるよ、自分が卑屈だったってことくらい、なんて過去を振り返って分かったつもりになっても、誰も救われないし、何も変わらない。
過去のわだかまりを解決するにあたり、ふたりはお互いに変わったところそうでないところをぽつりぽつりと思い出していく。
結末の、男性側も女性側も、「ひとりで勝手に救われていく」感じが綺麗すぎず手垢まみれなところに好感を抱いた、少なくとも私はそう感じた。
許しを請うのも、子どもの為相手の為と言い出すのも、相手の気持ちを理解したつもりになるのも、すべては自分がまた前を向くためなのだ。
私がこう思うのにはある種の曲解が含まれるのかもしれない。
たしかに過去を見れば問題だらけで今もそれが解決したとは言い切れないのかもしれない、それでも当事者たちがまた次の日を迎えるにあたり肩の荷が下りるというのならそれでいいじゃないかと思う。
語弊を承知で言えば、結末はどれも希望に溢れたものではあるけれど、そう言った「醜さ」みたいなものが随所に散りばめられた物語だった。
そう思う一方で、これは私とは完全に関係のない話だよねと言い切れない私がいる。
思い返せばどの物語の主人公も、色んな劣等感みたいなものを燻らせていたし、そしてひとりだった。
前を向くにはちょっとしたきっかけが足りなくて、それぞれが誰かの言葉の、いちばん美味しいところだけを取り出して、強く生きていく。
その様になんだか私自身もふわっとどこか強張りが解けてゆくような気持ちになった。
そしてここからは、現実を舞台にしたお話はそれだけでなんだか心躍るものがあるよね、っていう別の話。
実際に公園の名前を見て、ふわっと景色が浮かぶのは港の見える丘公園と石神井公園。
あけぼの子どもの森公園は行ったことはないけれど、ムーミン要素がふんだんらしいという記述を見て、狙いすましたようにタイムリーでくすり、としてしまった。(※2018年センター試験にムーミン村が出題)
そんなわけで、行ったことある公園は読んでいるだけで情景が鮮やかに思い浮かぶし、行ったことのない公園に関しては、これから出先でその駅名を見るだけでその公園のことを、この物語のことを思い出しそう。
特に港の見える丘公園の『雨上がりに傘を差すように』なんかは、読んでいて本当に雨音と匂いがぐっと立ち込めてきそうなくらい。
こうやって、物語と現実が少しずつ混ざり合ってどちらも豊かになっていく感覚というのも、私にとって本を読むことの喜びのひとつなのだけれど、秋の石神井公園を舞台にした『メタセコイアを探してください』にてラクウショウの文字が出てきた時も、個人的に思わずびくっとしてしまった。
幼心に好きなんですよね、ラクウショウ。
樹木の種類なんですが湿地では、根っこの一部があちこちにタケノコみたいに地上に飛び出すんですよね。ラクウショウの地上根。
はじめて見たときのインパクトがすごくて、なんだこれ! って思って以来、ラクウショウの虜なのです。
新宿御苑で見られるのですが、もう毎回必ず足を運んでしまう。
新海誠監督の『言の葉の庭』に感銘を受け、一時期年パス買うくらい散歩に出かけることがあって、そこで見つけたラクウショウと巡り巡って嬉しい偶然の再会を果たして。
だいぶ話が逸れてしまったけれど、兎にも角にも言いたいことは、物語があるから現実は色鮮やかだし、現実があるから物語はこんなにも楽しい。