ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『校舎五階の天才たち』

『校舎五階の天才たち』 神宮司いずみ

校舎五階の天才たち (講談社タイガ)

 

表紙の雰囲気とあらすじが私好みで、「苦くて切ない青春ミステリ」の惹句だけで十分手に取る理由に足る。青春群像劇。

文章全体は水底みたいに静々としていて、主人公と一緒になって事の真相に思いを巡らせてゆく。

若さとか苦悩とか身勝手さとかが目に見えるくらいに彼らの人間関係を取り巻いて、またあるところでは取りつないでいて、誰かを見るまなざしが利害関係だけで割り切れるものだけでなくて、こんな風にどうしようもなさでいっぱいなところが本当にたまらなくすき。

 

 

あらすじ

ある日、高校三年生の来光福音のもとにノートの切れ端を折りたたんだ簡素な手紙が届く。

それは天才と称され、そして自殺してしまった男子生徒、篠崎良哉からだった。

そんな彼からの遺書には「僕を殺した犯人を見つけてください。」の一文と、もう一通同じ手紙を渡した生徒と協力して犯人捜しをしてほしいとの旨が書かれていた。

なんでもない平凡な女子生徒であった福音は、良哉と同じく天才と呼ばれている沙耶夏と「事件」を調べていく。

彼女は、ひとりの天才の死に何を見るのか?

 

 

 

 

 

※結末の明言は避けていますが、所々本文の内容に触れています。未読の方、ネタバレを避けたい方はご注意ください。

 

 

 

 

天才の声にならない叫び

 宇宙が空のままだったら、僕らはしあわせだったろうにね

 という、作中何度か印象的に引き合いに出される死んでしまった良哉のことば。

このことばの差すところは、もちろん物語を読み進めていくと分かるのですが、当初想定していたよりも良哉の死に色んな人の感情が絡み合っていて、つい彼の「死」の意味について考えてしまう。

犯人捜しを頼む手紙を書き残した理由、彼が死んでしまった理由、事件捜査に彼女たちが選ばれた理由、「宇宙が空のままだったら――」の真意。

 

ミステリにはトリックや真相の派手さや鮮やかさよりも、そこに込められた人の思い(ある種のワイダニット、WHY DONE IT)を重視するタイプなので、ひとつひとつ色んな感情に触れる度に心の中のコップが満たされていって、最後の最後で思わず溢れ出しそうになる。

 

こういう「どうしようもなさ」に滲んだ物語、たまらなくすきなので、今作がデビュー作だという神宮司いずみさんのこれからの作品も本当に楽しみ。

 

 

 

 

天才にいちばん近づけたのは誰だ

良哉の死をめぐって福音たちは周辺の人物に良哉の様子の聞き込み調査をするのですが、読み終わってそんな「天才の周辺」として語られた生徒たちがなんだか愛しく思う。

 

 

「愛しい」というのは正確ではないのかもしれないけれど、良哉が天才と呼ばれていて、そんな天才と呼ばれた少年の傍にいた人もまた並々ならぬ感情を抱いていて。

でも、彼を「天才」にしたのは紛れもなくそんな「周辺」の人たちで。

そういうひと言で割り切れないような変に熱を帯びた人間関係が、少し懐かしくもある。羨ましいかどうかは別として。

 

 

そんな「天才」に熱視線を投げていた人たちは、少しでも良哉との距離を縮めることはできただろうか。

恋でも友情でもライバル心でも、近づきたいという思いこそが、彼を遠ざけるということもあるのかもしれない。

「天才」ということにして、自分とは根本的に違うものだと、どこかで落としどころを作って、それでも彼に近づきたいなんて肩を並べたいなんて、たぶん、そんなある種の滑稽さに愛しさのようなものを見出したのだと思う。

 

 

私は天才と呼ばれる人の気持ちは分からないし、きっとこの先も分かる機会を得ることはほとんどないだろうけれど、「分かるわけないよね」なんてこの感情こそ、私を良くも悪くも「平凡」たらしめている要因のひとつなのかもしれない。

簡単に自身のことについて「分かる」とも「分からない」とも言われたくない気持ちはきっと誰にもあるだろうけれど、それでも良哉が死んでしまったのは、そんな彼の気持ちに誰も寄り添えなかったからだろう。

 

 

 

想像力は人類を

 作中の登場人物が「想像力」について語り合う場面があって、想像力は人類を救うか、あるいは想像力のせいで永劫の苦しみを負うことになったか、というもの。

この会話がなされた場面も相まって、何故だか「ひやり」としたものが心に走ったのを今でも覚えている。

想像力のせいで苦しみを負うだなんて、なんて残酷なのだろう、と思ったこと。

 

ある種、もちろんそれは真実なのだろうけれど、想像力のせいで苦しむことになるなんてあんまりじゃないか、と読みながら私は思ったのだ。

それにどうして、この人はどうしてこの場面でそんなことを言うのだろう、と。

良哉の死にまつわる一連の出来事と、福音たちの捜査によって起こった変化は何もかも想像力のせいだと言われたような気分になった。

 

 

多分に私は「想像力」というものを信じていて、それこそ自身の想像力の足りなさに時折くよくよしてしまいそうになるくらい。

それを苦悩と呼ぶなら、きっとそれは贅沢だ。

想像によって生まれた苦悩のほとんどは、それこそ、想像力によって克服することができると思っていて、良哉の「不幸」な死もきっと想像力によってどんな意味を持たせることできるし、それは生き残った人たち次第だと思う。

 

良哉の死によってもたらされた想像する余地を、今後、福音たちがじゅうぶんに活かせることを願うばかり。