ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』 原作:岩井俊二 著:大根仁

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? (角川文庫)

 

今から24年前にテレビドラマとして作られた作品が再びアニメ映画作品としてリメイクされることになり、そのノベライズとして刊行されたもの。

テレビドラマ版が存在していたことをこの作品のあとがきを読むまで知らなかったのですが、「もしも」の世界を繰り返すというファンタジー要素が盛り込まれていて、夏や花火の淡さがぎゅっと詰まった物語でした。

 

 

あらすじ

田舎の港町で暮らす中学生の典道。

花火は丸いのか、平べったいのかということを確かめるために、花火大会の日、友人たちと灯台に登る約束をするが、同級生のなずなから「かけおち」に誘われる。

ここではないどこかへ行きたいという彼女の願いに典道が困惑している間になずなは母親に連れ戻されてしまう。

必死に抵抗する彼女の姿を見て、典道は心の中で後悔する......もしも、オレがなずなと――。

繰り返される1日の最後にふたりが見た未来は。

 

 

繰り返されるもしもの世界

同じ日を繰り返すという、こういうSFちっくな要素があるとは本を手に取るまで知らなかったのですが、なんていうか夏の淡さと相まって最後に得られるカタルシスがとてつもない。なんていうか、本当に夏の終わりに感じるような「ああ、このまま終わってしまうんだ」という寂しいような悲しいような気分。

作中、典道が願って繰り返されるもしもの世界は、現実ではない別の世界として描かれている。

だから、最後にはちゃんと元の世界に帰らなければいけないのだ。

ひとつひとつ世界が繰り返され、典道となずなの距離が近づく度に、現実からは遠く離れてしまう。

あるいは、どれだけ「もしも」を繰り返そうとも、彼らが生きる現実は変わらない。

夢みたいな時間だけが彼らの心に残って、「もしも」なんて虚構は消えてゆくのが、本当に夏みたいで淡くて綺麗だ。

 

 

子どもと大人の狭間

なずなの逃避行を自ら「かけおち」と呼ぶところとか、親に反抗して飛び出すところとか、子どもと大人の曖昧な境界を生きている、と感じた。彼らはまだ中学生で、社会的には子どもなのだけれど、自意識だけがめきめきと大きくなってゆく。

「あたしと典道君は駆け落ちしてるんだよ。あたしにはママのビッチな血が流れているんだから」

p.168

 というなずなの台詞に思わずどきりとしてしまう。

この台詞を言い放ったなずなの背伸び具合だとか、本人にとっては切なる問題であるところとか、物分かりよく振舞って見せるところとか、そういったものすべてが合わさって、甘酸っぱい気持ちになる。

そういうなんだか良く分からない原動力に突き動かされて、自分の言った言葉の意味すら飲み込まないままに、行動に起こすことのできる彼らのことが、今の私には眩しくて仕方がなかった。

 

 

映像でしかできないこと

小説を読むことでしか得られないものもあれば、逆に映像でしか得られないものもあると思っていて、この小説を読みながら映像で観てみたいという場面が多々あった。

典道となずなの会話の間とかまなざしとか呼吸とか、夏の日差しとか音とか色とか。

この小説の著者であり、公開される映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の監督である大根仁さんがあとがきで書かれていた通り、小説は話のエッセンスだけぎゅっと詰まっている、という感じで映画でしか伝わらない細かい距離感や表情がたくさんありそうだ。

それこそ小説としての描写を省かれた部分がいくつかあって、これはこの目でその場面を見るべく絶対に映画館に足を運びたくなっちゃうやつだ......! とひとり「おとな」のずるさを垣間見たような気分になっている。

 

 

 

そして今回の作品と一緒に刊行された『少年たちは花火を横から見たかった』は原作から「もしも」という要素を取り払い新たに改訂した小説らしく、 こちらも合わせて買ったので取り急ぎ読んでみたいところ。