『僕らの空は群青色』 砂川雨路
河野裕さんの『いなくなれ、群青』がとてつもなくすきな私。
タイトルに「群青」という単語が入っているという、至極単純な理由で気になっていたところ、Twitterでの他の方の感想を見かけ、今が好機と言わんばかりの勢いで手に取って読んでみるなど。
※以下、所々内容に触れています。未読の方はご注意ください。
大学1年生の白井恒は、図書館で浮世離れした雰囲気を纏う遠坂渡と出会う。
義理の姉を意識不明の状態にしてしまったという罪の意識から、常々罰せられなければならない存在なのだと何事にも距離を置く渡。
人との関わりを極力避けようとする渡が気にかかる恒は、多少強引ながらも、渡との距離を詰めてゆく。
こういう物語に出会うたび、私はどちらかと言うと元気づけようとする主人公よりも、ありのままの幸せを享受することに迷っている人物の方にシンパシーを感じてしまう。
はっきりと言ってしまうけれど、今回登場する渡という青年はとてもめんどくさい人物だ。
それこそ恒の図々しい態度があってようやく渡は心を開き始める。
きっとそれほど頑なになってしまうほどに渡はずっとひとりで生きてきたのだと思うと、渡はもう既に十分罰せられているのではないかと甘っちょろいことを思ってしまう。
その一方で、私が物語で出会ってきた、こういう「罰せられたがり」の多くは、ちゃんと幸せと向き合うことができるようになっていくのだけれど、時々果たしてそれが「正解」なのかと思う時がある。
いや、もちろん倫理的、社会的には正しいのだろうけれど。
救われていくことを否定するわけではないが、自身の罪の意識に殉じて死んでしまう人物と物語の中で出くわしたとしても、それもまた綺麗だと思ってしまうだろうと思う。
結末として、ようやく前向きに生きることができるようになった渡は、彼の意志とは関係のない理由で死んでしまう。きっとそれは悲劇と呼ぶにふさわしい。
そうしてなんだか私は置いてけぼりにされたような気分になる。
運命なんてちゃちな言葉を使うけれど、まさに翻弄されて死んでいったのだと思うと渡の人生は何だったのだろうと思う。だったら浮き沈みもなくずっとローギアのままでも良かったのではないかと思う、結局同じタイミングで死すとしても。
中途半端に未来半ばで命を落とすよりも、ようやく裁かれる時が来たのだな、と死んでゆけたのならそれこそ渡の本懐だったのではないか。
なんて、RPGのボスキャラみたいな終末的な思いを抱く。
今回、いつまでも清算されない過去を引きづり続けることになったのは、恒だ。
渡を救おうとした恒が結果として、魚の小骨のようなしがらみを抱き続けるこの物語の構造に、思わずやりきれなさを感じる。
恒が家族に対して過去の出来事を独白する形で始まるこの物語は、渡が救済されるだけの物語ではなくて、結局は恒がひとり抱えていたものから少しだけ解放されるための物語だったのだと思う。
終わってしまったことに対して、もう残された人は幸せだって言うしかないのだ。
渡の贖罪だってそうだけれど、きっと感傷的な思いなんて自分のためにしかならないのだと切に思う。
だから、渡にはもう少し早く、前を向くきっかけが必要だったのに。