ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『羊と鋼の森』

『羊と鋼の森』  宮下奈都

羊と鋼の森



2016年本屋大賞、大賞受賞作の『羊と鋼の森』。
宮下奈都さんの作品を読むのは今回が初めてということで、とてもわくわくとした気持ちでページをめくりました。



ピアノ調律師の世界に飛び込んだ青年の「成長」を「やわらかく」描いた物語。

「成長」と言っても、分かりやすい大きな困難が降りかかり、それを乗り越えてゆくわけではない。
調律師を目指すきっかけとなった、辿り着きたい調律があって、そのために何をすれば良いのか分からなくても、曖昧模糊とした森の中を歩いて行くしかなくて。
それでも日々の中で調律を繰り返すうちに、誰かと言葉を交わすうちに、曖昧なものにひとつひとつ自分なりに輪郭を与え血肉にしてゆく。
言葉に表すことのできない、ピアノの音の意識をお客さんと擦り合わせて行くことと、日常のものになんとかして名前をつけて飲み込もうとすることは、たぶん似ている。
正解なんて、きっとないのだけれど、決して楽なことではないけれど、そこに小さな喜びを感じずにはいられない。




また、描かれる文書はどれも肌にゆっくりと馴染む水のようにどれも「やわらかい」。
香辛料みたいにぴりっとした大きな変化がなくとも、そのままで良いのだという気になる。
枝先のぽやぽやが、その後一斉に芽吹く若葉が、美しいものであるのと同時に、あたりまえのようにそこにあることに、あらためて驚く。あたりまえであって、奇跡でもある。きっと僕が気づいていないだけで、ありとあらゆるところに美しさは潜んでいる。
p.20
必要なのは自身が変わってゆく事よりも、身の回りのものをどのように捉えていけるかなのだと、感じた。
愛しいもの、美しいものをこつこつと増やすことが出来たのなら、きっと人生はそれなりに楽しい。

今はまだそのときじゃない。才能が試される段階にさえ、僕はまだ到達していない。
p.125
何かに臨むに際し、その入り口に立っただけで才能がないとこぼしてしまいがちだけれど、きっと才能がない、なんて言えるのはやれる事を粗方やり尽くした人だけなのだ。
この物語でも触れられているように、たぶん、執念だったり好意だったりひとつひとつ積み上げることのできる何かが才能なのだと、私も思う。
「才能」のことばを口にする頃には、きっと出来なかったいくつかのことが出来るようになっているはずで。





このお話を読みながら、ふと、私の実家にあったピアノのことを思い出した。
妹がピアノを習い始め、それに合わせてリビングの片隅に大きなスペースを取っていつからか置かれるようになった。
私は「猫踏んじゃった」等、数少ないレパートリーの中から徐に時々思い出したように、弾き鳴らすだけで、私にとっては楽器というよりもおもちゃという感覚が近かったように思う。
それでも、年に一度、男性の調律師の方がピアノの調律をするのを後ろで何も言わずに眺めていたことがあるのを、今でも覚えている。

調律の途中で確かめるように時々鳴らされる音の違いが私には分からなかった。それでも調律師さんの中にはつくりたい音のイメージがきっとあってその音に近づけようとしていたのだと思う。
そんな熱意のこもった音を技術も作法もない私の指から弾き出すことが出来たということはすごく贅沢なことだったのだと今にして思う。

そんな風に、劇的ではないけれど、身の回りの愛しいと思える範囲を少しだけ押し広げてくれるお話でした。