『想像ラジオ』 いとうせいこう
※大まかに作品の内容に触れています。
ネタバレが嫌な方、未読の方、ご注意ください。
久々にいい意味で消化不良起こしそうな程、ずどんときました。
頭の中でくるくる持て余して、なんとか思ったことをことばで表そうとするのだけれど、どんなことばも少し足りなくて、なにか多すぎる。
DJアークこと芥川冬助が不特定多数の人に向け、想像の中でだけ発信し続けるラジオ。
実際に電波や音を発するのではなく、想像力の中でだけ聞こえるラジオ。
流すBGMやDJの声音、放送時間、受け取り方、何から何までリスナーの想像次第。
DJアークの頭の中に直接ビビッときたメールを(もちろん想像の中で)読み上げながら、自身の人となりや想像ラジオの事について語っていく。
文庫の背表紙のあらすじを見ても分かるように、東日本大震災を背景にしている本作品。のちのち読み進めていくと分かるのですが、想像ラジオを受信できるのは震災の被害に合い、命を落としてしまった人たち。生きながらえることができなかったために、浮かばれない人たちによってメールや電話などのメッセージがDJアークのもとに寄せられる。もちろんDJアーク自身もその被害者の一人。はじめは陽気にDJを演じるも、次第に自分の死を実感し始める。たとえそれが悲しみであろうと憎悪であろうと、死別してしまった現実世界を生きる妻と息子の自分への思いを知りたくて、ことばを交わしたくて放送を続けるDJアーク。
全部で5章で、奇数章はリスナーとのやり取りを中心に芥川冬助としての家族への思いが語られていきます。
2章は、震災後被災地に訪れたボランティアの人たちの話。
時々混線するかのようにボランティア参加者の耳に届く想像ラジオ。
しかし不思議なラジオが聴こえると同行者に話をしたところ、そういうのは死者に対して、被害者に対して失礼だと切り捨てられてしまう。
どれだけ寄り添おうとしても、理解に努めようともボランティアである自分たちには、被害者の思いに当事者として共感することはできず、ただ安易な妄想にふけって自分自身で納得して完結させてしまうのは、どこか見下すようであまりにも薄っぺらい、と。
ただ私は、たとえどれだけ想像しても他人の苦しみや絶望に寄り添えないとしても、歩み寄ろうという気持ちだけは持っていられる世界であってほしいな、と思うのです。今回の震災に限らず、日常の些末事に対しても。たとえその想像がひどく薄っぺらいものであったとしても、自分本位で本当に苦しんでいる人のことをまったく考えないものであったとしても、理解しようという気持ちが微塵もそこになかったらきっと生きづらい。何もできない、理解できないという罪の意識から耳をふさいでいたってなにもかわらない。
4章はすべて恋仲にある男女間で交わされる会話文のかたちで進んでいく。
読み進めていく中で、女性はすでにこの世にいないこと、女性の発言はすべて作家である男性の想像によって会話を書き連ねるかたちで紡がれていたことがわかる。
会話の中で二人は当たり前に存在しているかのように会話を続ける、触れたい、会いたい、と。
状況はとても悲しいはずなのに、ぽつぽつと懐かしむように2人は昔の思い出について語る。
女性は、想像するということによって生者である男性の中で完全に生き続けている。
生者がいなければ死者もいない。
この本全体を通して。
きっと人間が苦しみや悲しみを乗り越えるために想像力があるのだと思った。
何も乗り越えるだけじゃなく、たとえそれが逃避であっても、どうしようもない絶望を前に立ち尽くしてつぶされてしまわぬように。
また想像ラジオという形はとても小説を読むことに似ている、と感じた。
受け取り方も、切り取り方も、想像力次第。
どんなとらえ方もきっと間違いではなくて、寄り添い方も人それぞれ。
ただ発信する人の思いも受け取る人の思いも、きっと電波のように何かを伝い、いつか必ずどこかの誰かの琴線に触れる。自分と似たように共鳴してくれる人が、時が、きっと、ある。