ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『いなくなれ、群青』 河野裕

いなくなれ、群青 (新潮文庫)

 

今回は新潮文庫nexから出ている、『いなくなれ、群青』

 
個人的には、ここ最近のアタリ本。
アタリ本なんて表現じゃ足りなくて、自分のお小遣いで何冊か買い揃えて、友達に「これ絶対に読んで!  そして感想を聞かせて!」と手渡して配りたいくらい。
 
 
 
 
舞台は階段島と呼ばれる、閉鎖された島。
閉鎖されているとはいえ、島外部との連絡手段や移動手段が断たれている以外は何不自由なく生活することができ、必要な物資は定期船でどこからか運ばれてくる。
そんな島に住む住人はどこか“欠点”のある人たちばかり……。
 
と、ここまで書くとなんだかこてこてのファンタジーやSFっぽく思うかもしれないけれど、河野裕さんのつくる世界観が透明で、限りなく淡くて、少し変わった設定もしっくりくるのです。
登場人物も起こる出来事も階段島も、そのすべてが馴染んで合わさって綺麗な絵になる感じ。
 
 
 
 
主人公の男子高校生七草も気づいたら階段島に立っていて、この島の階段を上がった先には魔女がいる、七草”なくしもの”を見つけなければ元の生活に戻ることができる等の説明を受ける。
 
この七草くん聞き分けが良くて大人しい、というよりいろんな物事に関して自分の優先順位が低いタイプで、すぐに島での生活に馴染んでいく。
ただかつての同級生真辺由宇(ゆう)の登場で、七草は彼女に振り回されることになる。
 
真辺の性格は七草と正反対。どんな定規で引いた直線よりもまっすぐで、正義感が強い。泣いている子がいるなら、ケーキを買ってきてあげてすぐに笑顔にしてあげることに意味を見出さず、泣いている問題の根本を断ち切ることにしか意味がないと考えるようなタイプ。例え泣き止んだとしても悲しみの原因がなくならければ、何の解決にもならないでしょ? そんなタイプ。
 

たとえば以前、僕は言った。

「我慢の同義語は諦めだ」

真辺 は答えた。

「我慢の対義語が諦めだよ」

諦めさえしなければどんなことでも、どんな相手でも、我慢強くつき合える。そういうことを彼女は話していたように思う。

でも僕は経験で知っている。諦めてしまえば、なにも期待しなければ、どんなことだって我慢できる。 

 

この会話にすごく二人の性格の違いが表れているように思うのです。

 

 

ただ、そんな七草にも真辺との出会いでどうしようもなく諦めることのできないことが。

新潮社文庫nexでのキャッチコピーを借りるならば、”この物語はどうしようもなく、彼女に出会った時から始まる――。”

 

 

 

 

 もちろん二人は階段島の秘密に迫っていくことになるのだけど、何よりこの物語の雰囲気がすごくいい。物語全体の透明感さゆえに描かれている七草の葛藤がくどくならずに鮮やかに映える。

他人の幸せを一方的に定義してしまうことや、大きなくくりでいろいろなものを暴力的にひとまとめにしてしまうことに対する遠慮。

 

作者の河野さん自身、なんともいいがたい感情を表現するのにすごく丁寧に言葉を選んでいるように思える。小さな小さな感情の動きや目に見えるものを100%とまではいかないけれど、できるだけ上手に伝えようとしているように思う。

 

百万通りの喜びを喜びと言う言葉で表して、百万通りの悲しみを悲しみという言葉で表して、どんな意味があるというのだろう? 

 この七草の思いを表した一文がいちばんのお気に入り。

このことばをかき抱いてねむりたいくらいお気に入り。

 

自分自身に対する評価が低く、自ら悲観主義と称する七草だけれども、そういった遠慮や不器用さ――よく言えば繊細さを持ち合わせているあたり、とても理想的で澄んでいて綺麗な世界を望んでいて、きっと自分自身が思う以上にいろいろなものを諦めきれていないと思うのです。