今回は新潮文庫nexから出ている、『いなくなれ、群青』。
たとえば以前、僕は言った。
「我慢の同義語は諦めだ」
真辺 は答えた。
「我慢の対義語が諦めだよ」
諦めさえしなければどんなことでも、どんな相手でも、我慢強くつき合える。そういうことを彼女は話していたように思う。
でも僕は経験で知っている。諦めてしまえば、なにも期待しなければ、どんなことだって我慢できる。
この会話にすごく二人の性格の違いが表れているように思うのです。
ただ、そんな七草にも真辺との出会いでどうしようもなく諦めることのできないことが。
新潮社文庫nexでのキャッチコピーを借りるならば、”この物語はどうしようもなく、彼女に出会った時から始まる――。”
もちろん二人は階段島の秘密に迫っていくことになるのだけど、何よりこの物語の雰囲気がすごくいい。物語全体の透明感さゆえに描かれている七草の葛藤がくどくならずに鮮やかに映える。
他人の幸せを一方的に定義してしまうことや、大きなくくりでいろいろなものを暴力的にひとまとめにしてしまうことに対する遠慮。
作者の河野さん自身、なんともいいがたい感情を表現するのにすごく丁寧に言葉を選んでいるように思える。小さな小さな感情の動きや目に見えるものを100%とまではいかないけれど、できるだけ上手に伝えようとしているように思う。
百万通りの喜びを喜びと言う言葉で表して、百万通りの悲しみを悲しみという言葉で表して、どんな意味があるというのだろう?
この七草の思いを表した一文がいちばんのお気に入り。
このことばをかき抱いてねむりたいくらいお気に入り。
自分自身に対する評価が低く、自ら悲観主義と称する七草だけれども、そういった遠慮や不器用さ――よく言えば繊細さを持ち合わせているあたり、とても理想的で澄んでいて綺麗な世界を望んでいて、きっと自分自身が思う以上にいろいろなものを諦めきれていないと思うのです。