24年前にテレビドラマとして作られ、今夏アニメ映画として放映予定の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』。
もしもこうだったら、という願いが叶えられるというちょっとしたSF要素のある作品ですが、今回の小説としての『少年たちは花火を横から見たかった』は、原作者の岩井俊二さん自らそのSF要素を取り除いて改訂したものでした。
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のノベライズも既に読んだのですが、「小説としては」こちらの『少年たちは花火を横から見たかった』の方が好みでした。
あらすじ
港町に住む小学6年生の典道。
家庭の都合により、典道の家にひと晩、同級生のなずなが預けられることになる。
兼ねてからなずなのことが気になっていた典道だったが、その日を境により一層なずなのことを意識し始める。
お祭りの晩、花火の形を確認するのだという友人たちから隠れるように、なずなと「かけおち」をする。
スーツケースひとつ抱え、勢いのままバスに乗り込んだふたり。
「もしも」という要素がなくなったことにより、より現実に沿う形でひと夏の初恋の行方が淡く描かれた物語。
小説『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』との違い
ドラマや映画、小説と連なる作品が多すぎて、何と比較したらいいのか頭がこんがらがりそうですが、ひとまず今作と一緒に刊行された小説『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』との違いとそこから私が感じたことを。
アニメ映画では主要人物たちの年齢は中学生なのですが、原作では小学生。たった1年の違いなのに、こちらのなずなたちは随分と幼く感じた。
中学生のなずなの「かけおち」は反抗期みたいに背伸びしているような部分を感じた一方で、こちらは本当に現実をまだ分かってなくて、飛び出したらなんとかなるのではないかという見通しの甘さが際立って見えた。
こちらのなずなたちは電車に乗ることなく、あっけなく「かけおち」の計画は頓挫してしまう。本当に子どもの口だけの「家出」みたいだ。
私も小さいときに「家出してやる!」と啖呵だけ切って家を飛び出して、近所の公園でひとり途方に暮れていたのを思い出す。
それから「もしも」という逃げ道がないだけに、物語全体に「どうしようもなさ」が滲んでいるのが個人的にたまらなくツボ。
なずなとの「かけおち」も友人と約束した花火も、もはや夏の思い出にしかなりえない感じ。
あれほどかなしくてどきどきして一生懸命だったのに、全部褪せてなくなってしまう。
大きな違いとして、こちらの典道はなずなと花火を真下から見ることはない。
「今度会えるの二学期だね」と言い残したなずなのことを思い、彼女に見せてあげたかった、ずっとそのことを悔みながら典道が花火を見上げる場面、たまらなく綺麗だと思った。
SF要素があると、話の内容如何によらずわくわくしてしまう部分があるのだけれど、こちらは本当にどうしようもなく現実で、私が夏に抱いている淡さそのものと言っていいほどだった。
小説『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を読んだ時は映像向きだと感じたので、そういう意味で、「小説としては」こちらの方が私好みだった。
また、本編とあとがきの間にある、薺(ナズナ)に関する辞書的な説明書きの余韻がまたよい。
名前の由来は、ってところ。
ずるいくらいによい。
立て続けに花火が出てくる物語を読んで、今はなんだかとっても無性に花火が見たいです。
喧騒から離れて、遠くの建物の屋根の上に小さく見えるくらいでいいから。