ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』/岡田麿里 を読んだら、物語のキャラクター達が一層愛おしくなった話。

学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで

 

アニメ「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」――通称「あの花」があまりにも好きすぎて、本書を手に取って読んでみた。

その他にも「とらドラ!」だったり「花咲くいろは」だったり「凪のあすから」だったり、気が付けば私の心に残っている作品の中に、岡田麿里さんが脚本、構成を手掛けた作品がいくつもある。

岡田麿里さんの作品に登場するキャラクターは見ているこちらが痛ましく思うほどに不幸な目に遭いがち、というのが私が抱いているざっくりとした印象だ。

恋愛感情だったり憧れだったりを拗らせて、他人を傷つけ自身も傷つけられていく様は、ときおり見ていられなくなるほどに痛切な思いでいっぱいになって胸が締め付けれる。(私が先ほど挙げた作品は特に)

それでも。

それでも、それがフィクションの中で行われているただのお芝居だとは思えなくて、少しでもこのキャラクター達に救われて欲しくて、縋るような気持ちで続きを見てしまう。

 

 

そんな岡田麿里さんが脚本家になるまで、そして「あの花」「ここさけ」のキャラクター達を生み出すまでが描かれている。

小学校をなんだか通いづらいと感じ始めてから、秩父の町を出て初めて脚本を書くまでに半分近いページが費やされている。

そうして、岡田麿里さん曰く緑の檻を飛び出し東京の専門学校に通い、シナリオに興味を持って

人間関係の摩擦だったり、母親との確執だったり、描かれている内容は決して明るくなく、読んでげらげら笑えるようなものではない。

私にとってこれはエッセイというより、れっきとしたひとつの物語だった。

 

 

「登校拒否児」としての学生時代

彼女が本格的に学校に行かなくなるまでの中で決定的な場面として描かれている中学時代の出来事が印象に残っている。

自分を押し殺して偽って通い続けた中学校だったが、数日休んだのをきっかけに「登校拒否児」のレッテルを貼られ、頑張る気力がなくなってしまったという。

 

簡単に共感、なんて言葉を使って消費していいものではないけれど、そんなことを言っていてはどうしようもないので、「分かる」という言葉を使ってしまうけれど、多少なりともこの生き辛さは分かる部分がある、と感じた。

 

 

私自身、学校ではないけれど、小学生のころスポーツの習い事をしており、ちょっとした折に小さな地域選抜チームのようなものに選ばれることになった。もともと通っていたチームとは別に週に一度、選抜チームとして集められた小学生たちと一緒に練習するというものだった。

私は、この選抜チームの練習に行くのがたまらなく嫌だった。

ただなんとなくで始めた習い事でただ走り回っていればいい、というものから、いきなり練習は本格的なものになった。

当然のことながら、集められた小学生の中で私がいちばん下手で知識もまったくなかった。みんな当たり前にできるようなことが、私だけできなかった。そうして私だけできないということが時折練習中笑いの種になるのが本当に、嫌だった。

それこそ練習後、毎週家に帰ってはひとり風呂場で泣いていた。

 

練習日は木曜日だったのだけれど、下校途中に車道に飛び出して骨折でもしてしまえれば、なんて木曜日が来るたびに小学生並みの真剣さを伴って考えていた。

ある日、チームメイトから何気なく言われた言葉があって、その時のことを今でもはっきりと覚えている。

そのチームメイトに悪気があったわけではない、というのはちゃんと当時も感じていたことだけど、

「練習してて楽しい?」

このひと言に、思わず練習中なのに涙が流れてしまった。

私自身嫌々ながらも、ちゃんとそれなりに頑張って上手くやれているつもりだったのに、他人からそんな風に見られているというのがすごくショックだったし、そんなもの楽しいわけがない、と言えるものなら言いたかった。

 

それでも「続けることが大事」なんて言葉を信じて、結局なんとか目標とする大会が終わるまで休まず通い続けたのだけれど、打ち上げでもらったちょっとしたご褒美としてもらったストラップはその帰り道すがらに捨てた。

 

 

そんな風に多少なりの共感を伴って読んだからこそ、私はここに書かれているのは物語だと感じたのだし、その後に綴られている「どのようにして脚本家を志した」のか「どんな思いを込めてシナリオを書いているのか」という内容に一層興味を持って読むことができた。

 

シナリオを最初から最後まで書くということ

岡田麿里さんは脚本家になる上で大きなハードルのひとつとして、最後まで書ききること、と挙げている。

今まで自分の中で、溜めに溜めていた「自分がいつか世に出すはずの何か」のイメージは、どんどん膨れあがって「まだそこにはないが、とても素晴らしいもの」になってしまっている。それを実際にシナリオとして書いてみると、ふわっと描いていたイメージには遥かに追いつかない。自分はこんなはずじゃない、これで自分を判断されたくないという恐怖。

 

岡田麿里さんがこうして脚本家になることができたのは、高校時代の先生のおかげだけれど、本書を読んでいて節々に岡田さんはすごくガッツがある、と感じる部分がある。

なんの見通しもなく作品に感化されてトラックの運転手になればいいやと思っていた経緯もサイコーにロックだと思った。

それこそ「登校拒否」とか「引きこもり」なんてものはほんのきっかけでついてしまったレッテルに過ぎないのだと感じた。

もちろん、私自身も他人の目を気にしがちなので「過ぎない」のひとことで片付かないことは分かるけれど、それでもただただ人間として不能なのではなくて、ただ社会が生きやすい形ではなかったというだけ、なのだと思った。

 

 

「本当に書きたいもの」として書いた登校拒否児が主人公の物語――「あの花」

私はこの本を読むまで、岡田麿里さんがいわゆる「登校拒否児」だということを知らなかった。

もちろん「あの花」の主人公であるじんたんの生活ぶりだったり、他人の目を気にする様子に岡田麿里さんの経験が反映されていることも知らなかった。

もやもやを吐き出したいという欲求はまったくなく、登校拒否児は魅力的なキャラクターとして成立し得るか、という興味からこの題材を扱うことにしたという。

 

もともと、じんたん含め「あの花」に登場するキャラクター達は大好きだったけれど、この本を読んでから一層好きになった。

ただのキャラクターから、より人間っぽい印象を抱くようになった。

なんていうか、こう、好きな人の出身やバックボーンを知ることができただけでなんだか嬉しくなるような気持ちに似ている。

冒頭で触れた、岡田麿里さんの描く痛々しい程の人間関係だって、彼女の学生時代の人間関係に苦心した経験があったからこそ、現実感を伴って私の心を切り裂くのだと思ったら、ものすごく腑に落ちた。

 

 

おわりに

良くも悪くも、今後脚本、シリーズ構成に岡田麿里の字を見かける度にしばらくは今回読んだあれやこれを思い出して、色んな思いが溢れる状態で作品を見てしまいそう。

それを豊かと見るか余計なバイアスと見るかは人によるだろうけれど、私はこの本を読むことができて良かったと思っている。

つい先日、「あの花」をまるっと見返したばかりなので、今は劇場版を見返したい気分。

本当に余談の余談になるけれど、実は劇場版サイトのBlue-ray DVD完全生産限定版特典映像レビューという場所にひっそりと私のコメントも載っていたりする。

数あるうちのひとつだし、手書きだったため「しゆん」ではなく「しゅん」表記ではあるけれど(ネット上でもたまに勘違いされるのでもっと分かりやすいものにしておけばよかったと時々思う)、好きな作品にそっと花を添えることができたということがただただ嬉しい。

www.anohana.jp

 

心が叫びたがってるんだ。」に関しても、小説として刊行されたものを読んだきりになってしまっているので、近いうちに映像としてもばっちり観ておきたい。

 

小説 心が叫びたがってるんだ。

小説 心が叫びたがってるんだ。