ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『か「」く「」し「」ご「」と「』

『か「」く「」し「」ご「」と「』 住野よる

か「」く「」し「」ご「」と「

 

同じ高校に通う5人の物語。

この5人には他人には言えない「かくしごと」が――人の感情の動きが記号的に見ることができという。

もちろんこの能力のようなものだけが「かくしごと」なのではない。

人間関係だったり自分自身のことだったり、言葉にはできない人には言えない心の本音を誰しも抱えていて。

心の動きが”目で見える”からこそ、そんな悩みを抱えた隣のあの人がつい気になってしまう。

 

 

能力、なんて大層な言い方をしてしまったけれど、きっと誰だって人には言えないことを抱えているものだし、自分なりの尺度で他人の思いを推し量ろうとする。

今日はなんだか機嫌が良さそうだ、とか、あの人のことは触れない方がいいかも、とか。

主要登場人物の5人は、はっきりと目に見える形でそれができるというだけで、目に見えると言ってもそれが信頼に足るという根拠もないし、決して他人の感情を思いのままに動かすことができるわけでもない。

この物語に描かれているのはごくごくありふれた恋や友情に悩む高校生だ。

 

 

どの登場人物も素敵なのだけれど、私は中でもパラとヅカの関係が何よりも好きだ。

能天気でパッパラパー、だからパラ。

一方皆に好かれる男子高校生、ヅカ。

決して恋仲などではないのだけれど、この2人にしか醸し出せない雰囲気がたまらなく好き。

パラのお調子者な性格は演技によるもので自身の心根はもっとずっと冷めていると自覚しているパラ。他人の感情のリズムを読み取ることができるも、ヅカだけは何が起こってもそのリズムが変わらないことに同族嫌悪のようなものを抱く。みんなに好かれる彼は誰彼構わず明るく振る舞いながらも心は微塵も動いていないのだ。

 

 

「そうじゃないんだよ。本当は私だってそういう人間になりたいよ。損得なんて考えない人間になりたいし、やりたいことだけ迷いなくやれる人間になりたい。でも、実際の私はそうじゃない。私の言葉や、行動は、私がなりたい私に過ぎない。本当の私じゃ、ないの」

p.150

修学旅行中に無理がたたって体調を崩したパラがヅカにだけ心情を吐露する場面。

パッパラパーを演じているのが最適だろうと算段し、嘘を吐き続けて気負いすぎてしまうパラがなんというかいちばん愛おしいし、救われて欲しいと思ってしまった。

多分、彼女はこのままずっと1人ぼっちのまま生きていくのだろうか、と思ってしまったからかもしれない。

「それがさ、パラは上手すぎるんだよ。それを、もうちょっと気楽でいいんじゃねえかなって思って。無理するとさ、またぶっ倒れるぞ。それに多分、パラの場合、さっきの話聞いたら、少しくらい気を抜いてた方が面白ぇと思う」

p.152

 

だからこそ、そんなパラに対するヅカの飾らない言葉は何気ないけどスッと心に落ちて、そのひとことでパラの肩の荷が降りたような気がして私も少しほっとする。

似た者同士だからこそ、言える本音。

 

 

 

それから、京くんとミッキーの恋愛模様はなんだか初々しくて見てるこっちがなんだかむずむずするくらいだし、エルの内気と言いながらも最後にはずばっと白黒はっきりとつける性格、たまらなく好き。「さて、あなたのだーい好きな、暴走勘違い怪獣ミッキー。彼女は馬鹿です。本当に。」と未来に宛てた手紙に書いちゃうあたり、一周回って愛を感じる......。

 

 

 

こうして住野さんの作品を全部で4作読んできたことになるのですが、私にとってはいちばんあり触れていて身近で馴染みやすかったです。

誰にだって言えないことはあるし、そのことにぐるぐる1人で悩み続けることはないのだと、柔らかく教えてくれる物語でした。

 

 

 

最後に、蛇足なのですが、

『か「」く「」し「」ご「」と「』ってタイトルを見て、

森見登美彦さんの『有頂天家族』(つい先日2巻が文庫化したので読まなくては)の、アニメキャラクターのデザインをされている、

久米田康治さんのマンガ『かくしごと』をついつい、思い浮かべてしまう。

隠し事で描く仕事。

 

有頂天家族 二代目の帰朝 (幻冬舎文庫)
 

 

 

こういう風に色んな本が連想的につながっていくの、本当に楽しくて。

小さな発見を報告する幼い子供みたいに、得意げにダジャレを口にするナイスミドルみたいに、あんまり感想とはかけ離れていると分かっていてもついつい書き残しておきたくなっちゃう。