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ゆうべによんだ。

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『盲目的な恋と友情』

感想 新潮文庫 辻村深月

『盲目的な恋と友情』 辻村深月

盲目的な恋と友情 (新潮文庫)

 

私の中で辻村深月さんの作品は、爽やかな青春物語と後ろ暗いどろどろとした人間関係を描いた物語、大きくふたつに分けられるのですが、今回は後者。

山本文緒さんの解説にも書かれている通り、盲目的な恋と、盲目的な友情の物語。

 

それぞれ『恋』と『友情』と題されたふたつの物語から成るのですが、どちらも痛々しいほどに恋や友情に執着する様が描かれています。

 

 

 

 

ひと通り読み終えて。

恋とか友情とかいう響きがあまりにも綺麗すぎて、よくないな、と思う。

上手い例えが出てこないのだけれど、進行ステージ、発症部位によらず「癌」という響きが絶望的なのに、似ている気がする。

恋とか友情と一度名付けてしまえば、それは賞賛され、人生の大抵のことより優先されてしかるべきものに変わる。

正確にはそうあるべきだと、自他ともに思えるようなものに、変わる。

嫉妬だって独占欲だって自己陶酔だって依存だって何もかも恋や友情と呼ぶことはたやすい。多分、そんな色んな感情が混ざったものを恋や友情と呼んでいるのだろうけれど、名前を付けた瞬間にそれは限りなくいいものに見えてしまう。

 

 

『恋』にて語り手となる蘭花は大学オーケストラに指揮者として来ていた茂美星近と恋に落ちる。そして彼と時をともにする度、彼女は恋愛に溺れてゆく。

見た目も洗練されていて、指揮者として輝かしい存在である茂美を独占することに、そんな茂美が自分の前では普段と違った顔を見せることに快感を覚えるようになる。

今回の物語は過剰気味に書かれているけれど、きっと誰しも何か特別な存在になりたい、という気持ちは抱くことがある。「誰かのために」なんて言葉が紛れもなく自分のために発せられる時が。

次第に茂美の様子は変化し、蘭花は友人からも別れるよう勧められることが多くなる。

そんな否定な言葉すら甘美に響き、後に蘭花が別の人と結婚する時にまで「茂美との過去」を陰で話題に持ち上げていて欲しいと願う様を見て、あまりにも病的だ、と思う。

 

 

一方、『友情』の語り手である蘭花の友人、留利絵は過去の体験からコンプレックスを抱えている。まるで言い訳のように自分を卑下して、嘘を吐く。

『盲目的な恋と友情』を通して、いちばん印象に残っているのは留利絵のコンプレックスにまつわるシーン。

――オーケストラの練習を見てもらっているトレーナーからセクハラを受けたという話題が持ち上がった時。

「きっと私だったら、あの男の被害に遭わなかっただろうから。責任、感じる」

という留利絵の台詞と

「あの子がされたことの前で、今、自分の、そんなコンプレックスを優先させることの方が大事なの?」

という蘭花のもうひとりの友人、美波の台詞。

留利絵はきっと被害に遭った子を思ってそんなことを言ったのだろうけれど、その言葉では誰も救われない。

そんな一連のやり取りがあまりにも痛々しくて見ていられなくて、それでもこうしてしっかりと心に残ってしまっている。

 

危なっかしくも茂美との恋に陶酔する蘭花の傍にいようと決めた留利絵だが、蘭花にとってのいちばんの親友でないことに不快感を抱くようになる。蘭花が頼る親友が自身の嫌いな美波だということも相まって。

容姿の整った蘭花の親友である、ということで自分を肯定したかったのだろうけれど、それはあまりにも虚しい。

 

この物語全体を通して、蘭花留利絵もそれが虚しいことであるとはっきりと自覚していない。

ふたりともそれが褒められるべきいいことだと信じているからこそ、一歩引いて状況を見ている読者としては胸が痛くなる。もちろん、目の前で行われている一連の出来事に一抹の心当たりがあるからこそ。

 

 

 

ごく個人的に、恋とか友情とかそういうものは暴力的だと思っていて。

小中学生の頃は何にも代えがたい掛け替えのないものだと思っていたけれど今は扱いによっては人さえ殺しうると思っている。

もちろん、否定的な感情が100%というわけではないけれど、ぼけっとしていると私自身この物語で起こったようなことを忘れてしまうから、蘭花留利絵になりえてしまうから、ちゃんと自分の拠り所をはっきりとさせておきたい、と思うのです。

 

 

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