『明日、今日の君に逢えなくても』 弥生志郎
※内容に触れています。ネタバレを避けたい方はご注意ください。
ブログのコメント欄にてお勧めして頂いた作品を読んでみるシリーズ、
この作品、発売当初に少し気になっていて、めでたく積読本の一員になっていたので、早速読んでみることにしました。
〈シノニム〉という名の架空の病を患う少女、もとい少女たちの物語。
恐らく解離性同一性障害や多重人格障害と言ってしまった方が分かりやすいのかもしれません。
夏祭りの夜、統哉は少女から唇を奪われる。
ただ、統哉には一体誰にキスをされたのか、どの人格の少女にキスをされたのか分からず仕舞い。
ひとつの身体に宿る、みっつの人格。
ロックを愛する無愛想な少女。
走るのが大好きな活発な少女。
泣き虫でほんわかとした少女。
困惑する統哉をよそに少女たちはある決意をする。
それぞれの少女に焦点を当てた群像劇として描かれているのですが、「もし、病気が快方へ向かうのだとしたら、主人格以外は消えてしまうのだ」という意識が抜け落ちていた私は、読み始めて早々思わず姿勢を正す。
少女たちの何気ない行いが、現世での最後の清算のように思えて切ない。
世の人の大勢が多分そうであるように、私には主人格のために消えゆく人格の気持ちを想像することしかできない。
「死」とは違うのだと言うことだけは、はっきりと言い切ることができるが、果たして「それ」がどれほどの喜びや悲しみを伴うものなのかが分からない。
今回のお話に登場する少女たちは、つとめて前向きに、自らの夢を叶えて消えていこうとする。あくまでも自主的に。
そんなお話の構造が、私にとっては悲しくてどこか寂しいものだったのですが、最後まで読み終えて、消えゆく少女たちに「未練」と呼びうるものは多少あったにせよ、あの「前向き」は痩せ我慢でもなんでもなかったのだと思いました。
「私の分まで」と言うとなんだか悲愴的になってしまいますが、きっと主人格にすべて託したかったのだと。
確かに「私」と呼びうるものは消えてしまうけれど、主人格が少女たちの思いを受けて生きてゆけたのなら、多分それは少女たちがちゃんと息づいているのと同じことで。
その証拠に、少女たちの友人はちゃんと主人格の少女をとても愛そうとする……し、きっと主人格に過去に友人だった少女たちの部分をちゃんと見つけ出してくれる、はず。
ちょっとした小道具として登場しただけだけれど、クローバーというモチーフもすごくよい……。
そうして改めて高野音彦さんのイラストをぺらぺらと眺めると少女たちの表情の描き分けがすごくしっくりくる。
つい、とても柔らかい気持ちで少女たちのイラストを眺めてしまう。