ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『グラスホッパー』

グラスホッパー』  伊坂幸太郎

グラスホッパー (角川文庫)

 

今年11月の映画公開の前にもう一回読んでおこう、と思いまして。

私がこの作品を初めて読んだのは伊坂幸太郎さんの名前を知り、作品を読み漁っていた頃で、ページの端とか挟んである紙のしおりとか随所に今よりも無邪気に本を連れ回していた痕が残っていて、それだけでなんだかとても感慨深くなってしまいました。

 

 

この記事書くまで知らなかったんですが、1度文庫デザイン変更になってたんですね。

私の持っていたのは、こんな感じの装丁でした。

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帯を見たら何年前に手にしたのか一目瞭然なのですが、初めて読んだ時からもうそんなに経つんですね(笑)

 

 

※以下、ネタバレを気にせず感想を書いています。未読の方はご注意ください。

 

 

◇殺し屋たちとその世界
このお話には何人かの殺し屋が登場し、その殺し屋たちを取り巻く非日常的な世界が存在します。
 
ナイフの扱いを得意とする「蝉」。
相手に自殺をさせる「鯨」。
交差点等で相手を押して轢かせる「槿」。
 
非合法な薬の販売等で利益を上げる組織「令嬢」。
大掛かりなサクラを請け合う「劇団」。
殺し屋の雇い主たち。
 
そんな現実離れした世界に主人公の鈴木は、殺された妻の復讐を果たすため教師の職を捨て令嬢に入り、ひたすら復讐の機会をうかがいます。
 
 
 
少しずつ思い出しながら読んでいたのですが、登場人物たちの中では劇団の兄弟がお気に入りです。
「バカジャナイノー」とかPKは熊のプーさんの略とか、その他にもこの兄弟にまつわるお話って、周りが殺し屋とか復讐とかおどろおどろしいお話なだけに、すごく安らぎますよね。
 
後々伊坂さんの作品で、『PK』という名前の作品が出た時に、もしや、と思ったのですが、蜂蜜好きの黄色い熊の欠片も出てきませんでした(笑)
 
グラスホッパー』を読んで以来、サッカーのPKを見る度に、プーさん、と頭に浮かんでしまいます。
 
 
 
 
 
◇プラトニック
やるしかないじゃない。君の言う通り。
というように、度々鈴木によって妻の台詞が思い返されます。

僕は、君のために結構頑張ってるんじゃないかな。
という鈴木のことばがすごくすきです。


亡き妻のことばを鈴木の中で何度も反芻して、復讐を果たそうとする感じ。
復讐という目的は、ある意味歪んでいるのですが、それでも妻のために頑張る感じが。

頑張りが足りない、と言われ、死に際しても何をすることも出来なかった鈴木が、妻のために頑張りたくて、頑張っていると思いたくて、日常の枠を超えていく様子はすごくプラトニック、と思います。



このプラトニックってあれです。
白河三兎さんの、『(角のない)ケシゴムは嘘を消せない』、に使われているような意味合いで。

伊坂さんの作品に出てくる夫婦って何かと最強ですよね。
別作品ですが『モダンタイムス』に出てくる夫婦もすごくすきです。



◇最後の一節が導く結末

交差点の歩行者用信号の青色が、点滅をはじめる。その点滅がゆっくりに見える。いくら待っても、赤にならない。  

この信号いつまで点滅しているんだよ。 p.22

 

「兆候はあるんですよ、幻覚のしるしは。

...(中略)... 

信号や列車は、幻覚のきっかけになりやすいんです。信号はたいがい見始めの契機で、列車は目覚めの合図だったりします」  p.165


回送電車は、まだ通過している。  p.335

上記の引用のうち、はじめは鈴木が令嬢の社員によって試される場面、次は田中が語る場面、そして最後は物語最後の1行となります。

田中の台詞が正しいとするならば、鈴木は物語の間、幻覚を見ていたと考えることもできるのです。

この『グラスホッパー』という作品の結末について簡単に検索をすると、物語は鈴木の幻覚によるもので、最後の1行の後、再び幻覚から覚め最初の場面に戻るのではないか、というような解釈をされている方も多く見受けられます。



私はなんだか、そうは思えなくて。

本の解釈は、人それぞれなのでどれが正しくてどれが間違っている、ということはないのですが、私は鈴木が妻の死を乗り越えて消化していく物語として読みたいな、と思いました。



そもそも、 鯨も幻覚を発症している時、他人から見た鯨がぶつぶつと独り言を言っていたように、鯨が自覚していなくとも時間はしっかりと進んでいたので、物語の最初の場面に戻る、ということはないのかな、と思います。



先ほど書いたように、鈴木くんとその妻の関係を好いているので、幻覚症状の兆候の描写は、鈴木が復讐のために非日常へ飛び込む比喩だと捉えたいな、と思います。



まず信号の点滅。
令嬢の社員により、試用期間は終わりだと告げられ、鈴木自身が日常生活から乖離していく兆候であり、これ以降殺し屋や組織の世界に飛び込み奔走することになります。そして鈴木の穏やかであった日常が不穏なものへと変わっていきます。


そして、最後の電車の場面。
妻の復讐を終え、日常生活へ戻っていく描写とも捉えることができるのではないかな、と思います。
後から思い返せば、本当に殺し屋たちは存在していたのだろうか、と思えてしまうほどに目まぐるしい出来事であり、日常を生きていく中では知り得ない存在だけに、「幻覚≒非日常な殺し屋の世界」と私は思っています。



というか、この考えには、そうであって欲しいなという私の願いが十分に込められているのですが(笑)




映画の前に読み直そう、と軽い感じに思っていたのですが、
グラスホッパー』の続編にあたる、『マリアビートル』という作品があるのですが、そこではどんな風になっていたかな、と気になってしまいました。
『マリアビートル』は単行本で読んで以来なので、これを機に文庫本を手に、じっくり読んでみたいな、と思います。

確か鈴木も登場していたと思うので、幻覚についても何か言及されていたかな、とちょっと楽しみです。