『つれづれ、北野坂探偵舎 心理描写が足りてない』の続編になります。
前回と同様、小説家の雨坂と元編集者である佐々波の元に、小暮井ユキを介して幽霊にまつわる依頼が持ち込まれます。
ラバーグラスという演劇サークルに残された、宵野ランの脚本。
かつてカリスマ的な存在として多くのファンを魅了してきた宵野だったが突然姿を消してしまう。
彼の脚本を柱に成り立っていた演劇サークルの規模も次第に小さくなり、サークルの再興を願って新入生向けに彼の残した『三番目の誘拐犯』を演じることに。
その演劇の練習途中に男性の幽霊が現れ、そのことについて調べて欲しい、というところからこの物語は始まります。
『三番目の誘拐犯』に関しては謎が多く、4つの場面と1つの描かれていない空白の場面だけが残されており、演じる順番はおろか空白の場面に何を演じるべきなのかすらまったくヒントは残されていない。
ラバーグラスの学生が組んだ物語は、ある視点では50点、別の視点では0点と雨坂は言い放つ。
佐々波とともに必要な設定を埋めていき、最後にはなぜ空白の場面として残されたのか、順番が定められなかったのかまでを設定から読み解き、最後にふさわしいエンディングを紡ぎます。
いや、ネタバレになってしまうのであまり詳しい内容を言及することは避けますが、もう、相変わらず結末がきれいでたまらない。
どんな小説を気に入るかどうかっていうのはやはり、人それぞれだと思うんですけれど、この本を手に取った以上はなんとか最後まで、この本だけは読み切って欲しいです。
雨坂の紡いだ、河野裕さんの紡いだ物語の結末が盲目的に好きで。
河野さんの文章のきれいなところだけでなく、言葉との向き合い方もすごく好きで。
……というか何もかも耽溺しているのですが(笑)
誰かにもやもやを伝えたければ、言葉に置き換えるしかない。でもそうしたとたん、もやもやは型に嵌められ、整理され、わかりやすいけれど細部が正確ではない形に置き換わってしまう。綺麗な丸や四角になる。
そして一度言葉に置き換えてしまうと、胸の中からさえもやもやは失われるのだ。どれだけ探しても、綺麗に整理された言葉しかみつからなくなる。
p.218より
『いなくなれ、群青』の“百万通りの悲しみを悲しみという言葉で表して、どんな意味があるというのだろう?”にも通ずるところがあると思うんですが、私自身できるだけできるだけ丁寧に言葉を選んでいきたいと思う部分もあって。
なんていうか、自分自身でも満足に言葉にできないような感情を他人にぶつけてしまうのは、細やかな解釈を相手にまかせっきりにしてしまうのは、どこか暴力的なような気がしてしまって。
そんなところに河野さんの小説を見つけたので、これだ! と思わないはずがない、という。
でも、たとえば私が他人に料理をふるまったとして、その感想としてごちゃごちゃ回りくどいこと言われるよりかは、シンプルに笑顔でおいしい! と言ってもらえる方が嬉しいかも、