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ゆうべによんだ。

だれかに読んだ本のことをきいてもらいたくて。

『少年と少女と正しさを巡る物語 サクラダリセット7』

『少年と少女と正しさを巡る物語 サクラダリセット7』 河野裕

少年と少女と正しさを巡る物語 サクラダリセット7 (角川文庫)

 

新装版サクラダリセットシリーズ、最終巻。

前回、能力の存在をすっかり忘れさせられてしまった咲良田の住民。

その中で唯一記憶がある浅井ケイは未来のために、どのような行動を起こすのか。 

 

これまでのお話やその他の河野裕さんの作品についての感想はこちら↓

河野裕 カテゴリーの記事一覧 - ゆうべによんだ。

 

 

 

※以下、今までのお話を含め、内容に触れているので未読の方はご注意ください。

 

 

 

本当に今までの集大成とも言えるような展開と結末。

これまでの登場人物たちが、立場はそれぞれ違えど、「能力の存在し続ける咲良田」の方にひと匙の幸福や正しさを見出していることに本当に胸がいっぱいにになる。

そしてそのほとんどがケイとの出会いによるものが大きいというところが。

 

伏線、というか、布石、もいっぱいあって、一番印象的なのが能力の使い方を忘れるどころかケイとの出会いすらすっかりなかったことにされてしまった春埼がリセットを使う場面。

初めてスニーカー文庫版を読んだ時にも目が覚めるようにハッとしたことを今でも覚えています。

誰よりも純粋に優しい彼女は、泣いている人をみつけた時、能力を使う。

p.71

 それこそ最も序盤で描かれた設定がここに来て生きるのか、というところに。

家族との別離にも相麻菫の死にも涙を流さなかったケイが、ただ幸せを願うことで涙を流すところに。

軽々しく「分かる」なんて言葉を使って飲み下してしまいたくはないけれど、それでも誰かの幸福を願って流す涙もある、ということは十分に理解できるし、私にもそういった気持ちを抱くことはある。

でも、何故誰かの幸せを願うだけで涙が流れるのだろう、とふと思う。

涙を流す根っこの感情は人それぞれだと思うけれど、私が涙を流すとしたら、すきな人が、幸せを掴めるはずの人がその幸せを享受できないのがかなしくて、くやしいからだと思う。

もちろん、誰かにとっての幸せがこうである、と決めつけるのは身勝手だ。

そんなことを言ったら誰かを思って流す涙なんて、身勝手の最たるものだと分かっているけれど、それでもその涙を綺麗だと思ってしまう。

 

 

 

ケイと春埼のやりとりで言えば、最後の「もちろん。僕は記憶力が良いのが自慢なんだ」というケイの台詞は当たり前に好きだし、

「どうして私の記憶を取り戻したいのか」という春埼の問いに対するケイの答え。

「約束したんだ。君と一緒に夕食を食べるって。できればその約束を、思い出して欲しいんだよ」

 それは比喩の一種だったが、でも、たくさんの真実が含まれている。

p.65

この一節は色んな思いがぎゅっと詰まっていて、本当に好き。

もちろんこの約束のためだけに、記憶を取り戻して欲しいのではないけれど、ケイが春埼と夕食を食べる約束を果たしたいからというのも真実だし、そこにはただ約束をしたからというもの以上の思いが込められているところ。

 

 

 

 

それから相麻菫とケイと春埼。

シリーズ通しての感想で繰り返し繰り返し言っているように、私は彼女が一見完璧なようでその実とてつもなく人間臭くてたまらなく好きだ。

「野良猫みたいだ」というのは菫を説明するのに作中で何度も使われてきたたとえだけれど、それが彼女の孤独と寂しさによるものだと、ケイは能力のない世界で気づくことになる。

つまり、能力がなければ、菫は何の変哲もない「普通の」女の子でいられたのだ。

それでも、ケイは能力がある咲良田を取り戻したいと願う。

菫に関してはずっと「スワンプマン」の問題が心に根ざしていて、能力によって生き返った菫は常に不幸を心に宿している。

これに関して、中野智樹の声を届ける能力の使い方はすごく優しくて希望があって、そういう意味ではシリーズ通して一番好きな能力の使い方かもしれない。

生まれながらにして未来を視る能力を持っていて、その能力に振り回されてきた菫だけれど、最後にはちゃんと居場所があって良かった、と思う。

菫も春埼も互いのことが羨ましいと言うけれど、対抗意識はあれど決して険悪なものではなくて、その思いがあるからこそより2人とも人間っぽくなったな、と感じる。

自分なんてと自棄になっていた菫が、表情の変化の乏しかった春埼が、なりたい自分をしっかりと持っているということに、なんだか嬉しくなってしまう。

 

 

 

 

そして、物語の結末。

やっぱりケイが大好きだ。

菫に対する好きとは違って、ケイに対してはそれこそ憧憬のようなものを抱いている。

無理難題でも私は何も傷つけないものになりたいし、いつだって誰かの幸せを願っていたい。

相麻菫が用意した物語で、彼女自身が救われることがないのだとすれば。

まったく違う結末を、書き足さなければならない。

p.83

 この一節を読んで、河野さんの別作品に登場するとある小説家を思い浮かべる。

ある種、当たり前かもしれないけれど、彼とケイはよく似ている。

shiyunn.hatenablog.com

 

 

浦地さんと対峙する中で引き合いに出されるカルネアデスの板に対するケイの回答がとても印象的だ。

勇気は褒め称えればいいし、愛情には感動すればいい。どちらも正解でいい。

優しいのではなく、ただの我儘だとケイは認識しているかもしれないけれど、私から見れば随分ケイは優しい。

「あらゆる不幸に抵抗するんです。できるなら、そんなものみんな、ひとつ残らず消してしまうんです」

p.259

 というケイの理想は確かに途方もないくらいの「理想」だけれど、そのためならば神にだってなりたいというケイの意志の強さは本編を通して何度も見てきた。

自己犠牲というと独りよがりなイメージも抱きがちだけれど、ケイは決して自分に酔って自らを犠牲にすることはない。

ケイが犠牲になることで悲しむ人が傷つく人がいると分かった上で能力を使うし、できることならそんな誰かが悲しむ方法なんて取るべきではないということも自覚している。周りはケイが正しいというけれど彼自身は間違ったやり方だったと感じている。

いつだって最善を尽くそうとする、ケイはやはり我儘だ。

それでもそんなケイの変わらずケイであり続けようとするところに、物語の多くの登場人物同様、惹かれてしまう。

 

 

 

どこかの感想でも書いたかもしれないけれど、この物語には絵に描いたような悪人は登場しない。

だからこそ、私はこの物語が好きだし、読みながら答えの出ないあれこれについて思いを巡らせてしまう。

 

 

今はアニメがどんな風に出来上がるのか楽しみで仕方がない。

2017.4.4

 

『ひきこもりの弟だった』

『ひきこもりの弟だった』 葦舟ナツ

ひきこもりの弟だった (メディアワークス文庫)

帯の(私の好きな作家のひとり)三秋縋さんの推薦文とそれにまつわるTwitterの呟きもあって、ここ最近で発売を楽しみにしていた作品のひとつ。

 

 

 

タイトルを見て、主人公自身がひきこもりで弟なのだと思ってましたが、ひきこもりの兄をもつ弟が主人公でした。

読み終えて、言葉にしておきたいことは色々あるけれど、三秋縋作品が好きな私にとっては堪らない物語でした。シンプルに言えば、性癖ドストライク。自己肯定感が低い、主人公。

 

誰をも好いたことがない。そんな僕が妻を持った。

まず、この書き出しからして、しんとした海底みたいな諦観の匂いがする。よき。

主人公の啓太は駅でくたびれてまどろんでいるところ千草に声を掛けられ、初対面にもかかわらずその場で結婚を決める。

千草からされた3つの質問。

彼女はいますか、煙草は吸いますか、最後に、あなたは――

この最後の質問というのは、物語の終盤になってやっと明かされる。

そんな啓太たちの契約にも似た結婚生活は文字通り共存に近い。

ひとりでいるより、なんとなく生きやすいような気がするから。そこに愛情も恋情も存在しない。

 

 

 

啓太はひきこもりの兄を、そしてそんな兄を腫物のように大事に扱う母のことを煩わしく思っていた。

気が付けば恋に溺れる人たち、周りの人たちに甘えて自分の力で生きようとしない人たちを冷ややかな目で見つめるようになっていた。

恋をしたとして、行き着く場所はどこなのだろう、結婚して、子供を産んで、それが兄のようなひきこもりになったとしても、幸せだと言えるのだろうか。

 

 

 

 

まず、何よりも啓太と千草の結婚生活があまりにも手探りでちぐはぐで痛々しい。

表面的にはきっと幸せな夫婦に見えるのだけれど、お互いを思いやるような行為が心からのものではなく、きっとそうした方が喜ぶだろうという打算的なものによるとことが大きい、ということを互いに肌で感じ取っている。

相手を傷つけてしまわないように、と自分を押し殺して怯えているみたいだ。

そして、相手が自分のために何かをしてくれるだろうということを、きっと期待していない。

でも時々、僕は堪らなくなる。妻が笑っている。僕は大切にされている。平和な、幸せな日常。それが堪らない。時々、大掛かりなおままごとをしているような、掴みどころのない気持ちになる。

 

そんな風に、温度の上がり切らない夫婦生活と啓太の職場での生活が描かれながら、兄との確執が語られる。

大人になった今でも、私生活の至るところで兄を思い返す程に、啓太はひきこもりの兄に、囚われてしまっている。

 

 

 

大きな痛みは伴うけれど、この物語の結末は紛うことなく、ハッピーエンドだ。もう一度言う、大きな痛みは伴うけれど。

自分のことがたまらなく嫌いな自分のことを、それでも誰かが肯定してくれるということに、読んでいる私の感情も何もかもがゆるゆると解けていく。

思いのやり場がなくて、とりあえず泣き出したくなるような感覚を久しぶりに味わいました。

 

「この本を読んで何も感じなかったとしたら、それはある意味で、とても幸せなことだと思う」というのは、帯の三秋縋さんの推薦文だけれど、この本を読んで何も感じない人など、いるのだろうか。

とても幸せとまではいかないけれど、何も感じない人の方がきっと生きやすいだろうな、とは思う。

でも、過去も含めて自分が大好きで、生き辛さを微塵も感じていないと胸を張って言える人がどれだけいるだろう。

三秋縋さんとか白河三兎さんの作品が好きな人は迷わず読むべきだし、そうでなくとも是非読んでほしい。

 

最後の場面の、啓太の願いがあまりにも切実で、そこを読み返すだけで胸がいっぱいになる。

いつだって言い訳が得意な自分のことが少しだけ嫌いな人に、受け取って欲しい綺麗な言葉があるのです。

 

 

 

 

以下、ネタバレにつき、未読の方はご注意ください。

 

 

 

 

 

 

啓太と千草の3つ目の約束と彼らが迎えた結末。

啓太と千草は互いに生活の中で、少しずつ色鮮やかさを取り戻していくのだけれど、そのきっかけとなったのが兄からの手紙、というのが啓太にとってあまりにも皮肉だと思った。

ふたりの生活の中で、幸せになれるきっかけを見つけたのにそのままではふたりはいちばんの幸せを掴むことはできないのだというのがかなしい。

 

千草が初めて啓太の前で涙を流す場面、啓太が泣いているのが悲しくて涙を流しているのだという千草が印象に残っている。

誰かの為に、というのに本当に弱い。

 

 

それから。

だって、君は本当は、ちゃんと幸せになる力を持っているはずなんだ。

(略)

なんで手を伸ばさない。

 p.324

この言葉は私にとって少しだけ心が痛い。

その少し前にあったように、「辛い」ということに楽をする、ということに身に覚えがありすぎる。有り体に言えば不幸だ、冴えない、と酔いしれることに。

でも啓太と千草は本当に似た者同士だから、言葉をかけるということは自分を見つめ直すことに等しい。啓太だって、千草のことは言えない。なんで手を伸ばさない。

 

それからp.340の一連の啓太の願いが本当に、本当に、好きすぎる。

これは、私が欲しい言葉というより、誰かにあげたい言葉。

「君の欲しい物が、どうか全部手に入りますように。」とか。

「千草がちゃんと欲しい物に手を伸ばしますように。ちゃんと、掴みますように。」とか。

これだけ抜き出すとあまりにも綺麗すぎて目を逸らしたくなるけれど、こういう言葉がちゃんと輝くだけの裏打ちが啓太にはあるところが、またよい。

 

 

 

 

 

間違いなくここ最近で、私にとっていちばんの作品。

『装丁室のおしごと。』

『装丁室のおしごと。~本の表情つくりませんか?~』 範乃秋春

装幀室のおしごと。 ~本の表情つくりませんか?~ (メディアワークス文庫)

 

タイトル通り、帯を含めた本の装幀デザインを扱う出版社の装丁室の物語。

今作の表紙にも遊び心たっぷり。

こういう本にまつわる物語見つけるとすぐに飛びついてしまう......。

特に製本とか表紙とかそういうものに、本当に心惹かれます。

大体、『ルリユールおじさん』のせい。

 

ルリユールおじさん (講談社の創作絵本)

ルリユールおじさん (講談社の創作絵本)

 

 

 

今作には、仕事に対するスタンスが正反対の2人が登場する。

装幀は本の内容を体現する顔なのだと、物語を読み込んでデザインする本河わらべ。

一方、売れるのが第一、と原稿を全く読まない巻島宗也。

出版社同士の合併を機に、仕事の進め方の認識を統一するために2人はペアで仕事をすることになる。

案の定、衝突することになるわらべと巻島。

巻島があまりにも物語をぞんざいに扱うものだから物語の登場人物ながら私もわらべと一緒に「なんなんだあの人は」と思ってしまう。

もちろん彼なりに過去の経験に基づいた考えがあってのことなのですが、「いや、もう少しやり方あるでしょうよ......」と。

 

 

それでも、本は売れなきゃ意味がない、という彼の主張もよくわかる。

作品が売れなければ、作家だって(最近は兼業作家が多いと聞くけれど)生活していくことはできない。

そもそも手に取ってもらえなければ読んでもらうこともできない。

少し前にもTwitter等々で、似た雰囲気のイラストやタイトルの小説が多いということに何人かの読書家の方や作家さんが難色を示しているのを見かけた記憶がある。

もちろん「作品だけ」のことを思えば、その作品の色をふんだんに醸したデザインがいいに決まってる。作家さんが自身の命や生活を削って綴った物語は、唯一無二のものであるはずだから。

それでも、利益を生み出すための商品、という側面もある以上、理想だけ語ってはいられないのかもしれない。

それこそ、いち読者がどうこういうようなことではないのかもしれない。少しでも多くの人に読んでもらいたいと作家さん自身が思ったのならば、きっとそれはそれで正しいのだと思う。

 

どちらにせよ、装幀から汲み取ったイメージでぱぱっと手に取ってしまうことの多い私は、装幀家さんやイラストレーターさんにまんまとしてやられているのかもしれない。

 

 

 

今回の表紙だってイラストレーターのukiさんの名前から赤線がのびて、付箋の一部が左端に見切れているのが分かると思いますが、表紙をめくったところの見返しにもちゃんと印刷されているのです。実際に手に取らないと分からないところ、帯を外してみないと分からないところまで、色々な要素がぎゅっと詰まっているとなんだかわくわくします。実際に付箋に何が書かれているのか気になる方は是非書店へ!

 

 

 

物語の流れとしては、本当に色々な切り口でわらべなりに巻島なりに「よいデザインとは何か」を巡って話が進んでいくのですが、最後にはちょっとした事実が明かされてびっくり。

というか、わらべちゃんがそういうならいち読者の私としても巻島さんを認めないわけにはいかないじゃん。それってなんかずるいじゃん......? という感じで当初のぎくしゃくはどこへやら、ふんわりあたたかい結末を迎えます。

作中で、巻島さんになんとか本を読んでもらおうとあれこれ手を尽くすわらべちゃんが健気で健気で。

「狙った獲物は必ず沼に引きずり込む。読書沼という沼にね。だから、みんな彼女のことを河童と読んでいるそうだよ」p.160

(初版原文でも「読んでいるそうだよ」となっている。「呼んでいる」の誤植かしら)

とは、作中の登場人物の台詞。

 

気が付けば私も沼の住人になって早幾年。

積読本にあっぷあっぷしながらも、「まだよこせ、もっとよこせ」と本能が言う。

私ももっと周到に知人を沼に引きずり込めるなりたいものです。

 

『君は月夜に光り輝く』

『君は月夜に光り輝く』 佐野徹夜

君は月夜に光り輝く (メディアワークス文庫)

 

 

loundrawさんのイラストがきれいな、第23回電撃小説大賞受賞作。

 

高校生になった主人公の少年は、岡田卓也は、「発光病」という病で入院中の少女、渡良瀬まみずと出会う。

発光病――月の光により体が淡く光り、死が近づくにつれ高度は増していくという。

あることをきっかけに少年はまみずに代わって「死ぬまでにしたいことリスト」の内容を実行していくことになる。

 

 

こういう「不治の病」系のお話、世の中にありふれているからこそ、作者の機微がちょっとした差になって現れるところがすき。

今回は何といっても、岡田くんの投げやりな人生観がとても印象に残っている。

女性関係にだらしない彼の恩人に代わって関係を清算しにファミレスへ行く、という場面にて。

「岡田くん、お願いがあるんだけど」

「なんですか」

「あなたにコーラぶっかけてもいい?」

「いいですよ」

p.102

このやり取りを読んで、思わずたまらないな、と思う。

こういう痛々しい登場人物に、つい目が離せなくなってしまう。

彼のどこか冷めたものの見方の根底には、姉の交通事故死があるのですが、生きるということ、死ぬということについてそれぞれの登場人物たちが様々な思いを抱いている。

そういう意味では、岡田くんの恩人が手あたり次第女の人と繋がろうとするのも、この世を儚んでいるからだ。

 

 

 

 

そんな岡田くんの死生観はどこか明るいまみずとやり取りを繰り返すうちに変化してゆく。

まみずだって、自らの境遇にほとんどを諦めてしまっている。

そうでなければ「死ぬまでにしたいことリスト」の実行を他人に託したりはしないはずだ。

 

 

私から見れば、岡田くんも、まみずも、「死ぬ」ということにしてお行儀良くありすぎたのだと思う。

実際に直視しようとすれば、周りの人を悲しませ疲弊させるだけだから、と。

だからなんだか分かったようなふりをして、「死なんてなんでもないよ」なんて態度を取る。

それでも、ふたりで「リスト」の内容をこなしていくうちに、生きるとか死ぬとかそういうものを前に大人ぶるより、もっと大事にしなくちゃならないことがあることに気が付く。

ふたりでこっそりと深夜の病院の屋上に上がって、望遠鏡で星を見る場面はとてもきれいだ。

夜とか雨とか、ひとけのないところで二人っきりで会話をするというシチュエーションに弱すぎる私。

バイオフォトン(biophoton)という現象は実際に存在するらしく、誰しも微弱に光を発しているという。あまりにも弱い光なので肉眼で見ることはできないみたい。ただ、細胞が傷つくほど強く光を発するのだという。例えば喫煙者の指先とか。

死に近づくほど光り輝くというのは、なんだか皮肉みたいだけれど、それはきっととても美しいのだろうな、と思う。

 

 

作品を通して「無」というのがとても象徴的で、死んだら後には何も残らない、だから生きてることに意味なんてない、というのが、立場は違えど、彼らの考えだった。

生きていて、例えば忘れてく自分が怖いんだ。君の笑い方を、声を、その激しい喜怒哀楽の表し方を、君の息の吸い方や吐き方のかわりに、英単語とか、くだらないクラスメイトの名前、新しい道順、そのうち名刺の渡し方なんかを覚えてく自分が怖いんだ。

 という悲痛な岡田くんの叫びは、私にもよくわかる。

大事だと思っていたことが無意識に消化されていってしまうことに、できることなら抗いたい。

それでも、生きていたい、とか生きていなくちゃならない、と思わせるような執着に似た何かがあるから、生きてゆけるのかな、と思う。

そんな何かを、岡田くんも、まみずも、手にしてゆく。

 

 

 

この作品を読む際には、あとがきも併せて是非とも読んでほしい。

当たり前だけれど、この物語で描かれていることが生とか死とか恋とか執着のすべてではない。

でも、決して間違ってはいないのだと思う。

自分の中でそういったぼんやりとしたものを少しでも形にしたくて、こういう物語をつい、手に取ってしまうのかもしれない。

 

 

 

『少年と少女と、 サクラダリセット6』

『少年と少女と、 サクラダリセット6』 河野裕

少年と少女と、 サクラダリセット6<サクラダリセット(新装版/角川文庫)>

 

 

新装版サクラダリセットシリーズ6作目。

シリーズ作品も残すところあと7巻を残すのみ、というところまで来るといよいよ大詰め、という気がしてきます。

今回の物語は最後の締めを迎えるための準備のようなお話、いわば前半。

過去に1度スニーカー文庫で読んでいるのものの、本棚から引っ張り出して読んでしまいそうなくらい.早く続きが読みたい.....。

 

 

これまでのお話やその他の河野裕さんの作品についての感想はこちら↓

河野裕 カテゴリーの記事一覧 - ゆうべによんだ。

 

 

※以下、だらだらと感想が続きます。内容に触れることもあるかと思いますので、未読の方はご注意ください。

 

 

色々と触れておきたいことがあるのですが......まずは。

わかりきってることでいちいち足を止めるから、進み出せなくなるんだ。

p.35

序盤に登場するこのフレーズ。初めてスニーカー文庫版を読んだ時に印象に残っている言葉のひとつです。そういう言葉が他にもいくつかあって、そういうものに出会う度に嬉し懐かしい気分になります。

 

それから。

一〇〇通りの言葉を考えて、一〇〇回、なにかが違うと思った。

あらゆる言葉が、なんだか場違いだ。

p.53

 という場面。『いなくなれ、群青』の七草も似ていたこと言ってたな、とふと思う。

百万通りの喜びを喜びと言う言葉で表して、百万通りの悲しみを悲しみという言葉で表して、どんな意味があるというのだろう? 

『いなくなれ、群青』

河野さんの作品をこうして1周ぐるり、とまわって、こういう言葉にできない感情をどうにか言葉に落とし込もうとすることの意味を考えるのがすきなのだ、と改めて自覚する。

それでも言葉で伝える方法しか知らなくて、適切な言葉をいつだって探している。

 

 

 

続いて、相麻菫。

やっぱり彼女がたまらなく好きだ。というよりあまりにも不器用で放っておけない。

彼女が2年前に死んでしまった意味をケイも知ることになるのですが、能力によって「蘇った」菫が不憫でならない。

死んでしまった理由をひた隠しにし続けていたのは、ケイと春埼とのまるで能力なんて関係ない普通の高校生みたいに幸せな時間を守りたかったから。

そう決めたのは死んでしまった菫なのに、蘇った菫も別人であるとは言え菫に他ならないので信条を曲げることなんてできない。そうしてすべてを丸投げにして、ケイのためだなんて都合のいい言葉に濁して死んでしまった菫が許せない、という。

ケイと菫の間に交わされる言葉は、ほとんどが信頼によって成り立っている。他の誰でもない、ケイの、そして菫の言葉だから素直に受け入れ従おうと思える。

「ずっと、貴方の幸せだけを、祈っているわ」

自分の名前を知らない彼女は、そう言った。

p.312

 この台詞に色々なものがぎゅっと詰まっていて、ほんとうにたまらない。

 

 

 

今回は、最終巻に向けての山場、ということもあって結末は考え得る限りでは絶望的だ。

浦地だって完全な悪、というわけではない。

能力をすべて消し去る、という方法でしか世界を愛せないのだ。

1代目魔女がケイ達に問いていた「石ころでも愛せるか」という質問も、ちゃんと物語があったことを、今になって知ることができる。

多分、浦地には言葉が足りなかったのだと思う。

回りくどくても無駄でも言葉をかけたりかけられたりするような時間や相手が。

 

 

 

そうして、最後の「――伝言が好きなの。」の回想にも思わず泣いてしまいそうになる。

 

 

 

最終巻の発売が本当に楽しみ。

『おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱』

『おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱』 オキシタケヒコ

おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱 (講談社タイガ)

 

初めて読む、オキシタケヒコさんの作品。

もともとtoi8さんのイラストやネット上の評判で気になって同著の『筐底のエルピス』の1巻を大事に大事に積んであったのですが、もだもだしているうちに別の新シリーズが始まってしまうという恐ろしい事態に。

 

単行本を積んでるうちにいつの間にか文庫化されてしまうくらい恐ろしい。

おまけに、今回の『おそれミミズク』も評判がよさそうときたものだから、さあ大変。

Twitter講談社タイガのアカウントをフォローしていると、感想がちらほら流れてくるのですが、その大半が「怪談、ホラーかと思ったらSFだった!」と摩訶不思議なことを言うものだから、これは是非読んで確かめなくては、と。

 

結論。

土俗ホラーかと思ったら、SFだった!!

しかもお話としてもすごくよくできてる.....。

読書を好きになった頃に伊坂幸太郎さんの作品ざくざく読んでいたので、ちょっとやそっとの伏線じゃびくともしないからだになっていた私でも、すごいわくわくするくらい色んな出来事が密接に関わり合っていて......。

 

 

 

※以下、何がネタバレになるか分からないので、1周回って気にせず感想書いています。未読の方はご注意ください。

 

 

 

主人公の逸見瑞樹は、田舎の叔母の家で新聞配達をして居候として暮らしている。

そんな彼にはひとつ誰にも言えない秘密がある。

週末になると決まって自転車を走らせ山中の屋敷へ向かう。そこに設えられた座敷牢にはひとりの少女。ツナと名乗る少女に1週間で集めた怖い話を聞かせるというのが、瑞樹もといミミズクにとって10年続く習慣になっていた。

 

物語の前半はただただこの歪な関係がおどろおどろしい雰囲気で書かれていて、舞台が田舎ということもあって土俗ホラーなのかと思って読んでいました。

ところがミミズクが禁を破ってツナを救い出そうと心に決めたことをきっかけに物語の様子ががらり、と変わります。

怖い、どころか微笑ましい大団円を迎えるので、この雰囲気の変わりようもすごい。

 

読み進めていく中で、ひらがなだけで題された章がいくつかあって、内容もミミズクの見ている夢という曖昧なものだったのですが、後半になってようやく意味が分かります。

『うまれおちたるかうけうのひとつめざめたること』のタイトルを目にした時には、「かうけう」って何それ、と思っていたのですが今となってはちゃんと意味を持った言葉に。

 

 

数ある伏線(?)の中で1番体温上がったのは、瑞樹の夜目が効く設定が存分に生かされた場面、そしてミミズクという暗示が仄めかされる場面。

あんな序盤のパンク修理のエピソードが活かされて、瑞樹のあだ名、ひいてはタイトルにあるミミズクがこんなにも象徴的に扱われるとは思ってもいませんでした。

その他にも前半に彼がツナに怖い話として語った物語の登場人物とも様々な繋がりが見えてくるのも、わくわくしました、ちょっと触れるどころかこれでもかってくらいに関わってくるので。

 

それから「かうけう」について。

始めその存在が説明された時には、分からないことも多くて言葉遣いも相まってちょっと恐ろしい存在だと感じていました。

 ところが最後の場面。

気が付けば「かうけう」にどこかしら可愛げを感じている私。

 

ツナに関してはとりあえず一喜一憂、疑心暗鬼しすぎてあっちにいったりこっちにいったり。

え? 死んじゃうの? 生きてるの? どうなるの??? と。

とりあえず、どんな展開も急展開なので、告げられる事実、目の前の出来事にワンテンポ遅れて理解と気持ちがついていく。

 

後半は一気読み、という感想もちらほら見かけたけれど、本当にその通りだった......。

この本、怪談だしSFだし何より主人公の少年の成長物語だと思うのです。

 

 

 

 

 

 

『筐底のエルピス』も読まなくちゃ......こっちはなかなかの後味だと聞いているけれど、さて。

 

 

『感情8号線』

『感情8号線』 畑野智美

感情8号線 (祥伝社文庫)

 

畑野智美さんの作品ということで文庫化を機に。

環状8号線沿いに住む、恋愛ごとに心悩ます女性たちを描いた物語。

今まで畑野さんの作品をいくつか読んできたのですが、その中でも群を抜いてぐさぐさと刺さる作品でした。

あまりにも彼女たちが冴えなくて憂鬱で。それでも私とまったく関係のない話だとは言い切れなくて。

吉田恵里香さんの『にじゅうよんのひとみ』とか渡辺優さんの『自由なサメと人間たちの夢』を読んだ時と似たような、刺さり具合。

 


shiyunn.hatenablog.com

 

 

 

バイト先の彼女がいる男性に好意を寄せていたり、彼氏からDVを受けていたり、結婚間近で隣の芝が青く見えてしまったり、夫に不倫疑惑があったり、なし崩し的に上司と不倫関係を続けてしまったり、母親の呪縛から逃れられなくなっていたり。

お話としては、何事もなく日常の一部として消化されていくような結末を迎えるものが多く、それでもきっと似たような悩みを彼女たちは抱き続けるのだろうな、と思わせるような諦観に似た仄暗さがある。

また同じ世界観での話なので、随所で東女人物たちが繋がっている。

あれほど深刻に悩みを吐露していた彼女が別の話では羨望のまなざしを向けられていて、そういった場面に出くわす度に「なんとなく冴えない、どこか不幸な気がする」感情はきっといつまで経ってもついて回ってくるものなのかな、と少し暗い気持ちになる。

 

 

だからといって、こういう雰囲気の物語が嫌いなわけではないのです。たぶん、どちらかと言えば大好物です。

物語の中の人物ではあるけれど、こういう話を読むと刃が突き立てられてぼろぼろになってゆくのと同時にどこか安心する。

なんだ、この冴えない感じがしてしまうの、私だけじゃないんだ、とか。

彼女の気持ちは分かるけれど、流石にここまではひどくないな、とか。

比較する何かがあって、初めて私の輪郭や立ち位置がはっきりとしてゆく感じ。

確かにとても明るい気持ちでなんて読むことはできなかったけれど、こういった気持ちをなかったことにして無頓着で生きている方が私にとっては辛い。

 

 

数ある中でいちばん印象に残っているのは、千歳船橋で暮らす亜実の話。

優しい彼氏とハワイでの挙式も間近、自身も晴れて正社員に、と順風満帆なはずなのにどこか不安に感じてしまう。

偶然出会った昔付き合っていた同級生やバイト先の同年代の女性の存在に心がざわついてしまう。

望むものはないはずなのに、不幸だ。

と亜実は言う。

亜実は家事が得意でないことを、今後の結婚生活の不安のひとつとしてとらえていて、婚姻届けを提出した晩のご飯を張り切ってつくるも、メニューは子供のお誕生日会みたいで味も見栄えもいまいちだった。

そうして衣が剥げてしまっている唐揚げを口にした時の彼の台詞にすっと体温が下がるのを感じた。

「失敗じゃなくて、これが実力じゃん」

「だって、頑張ってこれでしょ?」

「大丈夫。そんなに期待してないから」

この台詞だって、彼なりの優しさで、亜実のできることを精一杯やっていけばいい、できないことは一緒に、という意図が込められていることは後の会話からも分かる。

何気ない場面として描かれているけれど、そういうありがたい優しさにかえってじわじわと首を絞められていくような気分になる。

限りなく自信が幸せな立場にいると頭では分かっているのに、素直にその幸せを享受できない。

不幸だ、と大変だ、ということで一生懸命になっているバイト先の彼女たちのことを羨ましく思う感じ。

読んでいて、たまらない、と思う。

 

 

 

多分、そういった感情はどこに行っても何をしていても付きまとうものなのかもしれない。

 

 

 

にじゅうよんのひとみ

にじゅうよんのひとみ

 

 

自由なサメと人間たちの夢

自由なサメと人間たちの夢

 

 

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